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ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(22)

(4)「生の諸次元とその関係」

 

 a. 「無機的および有機的領域における諸次元」

 

ティリッヒは、無機的なものは物質として取り扱われてきたが、「無機的なものの神学」(theology of inorganic)は欠如しているという。

それで、ティリッヒは〝単純〟なものから〝複雑〟なものへと漸次的に発展してきたその各次元について、「現象学的」に記述する。彼の現象学的記述とは、理論的な説明や推論をする前に、与えられたままの実在をそのまま記述することをいうのである。

 

現象学的な記述を基盤とした理論的説明や推論、すなわち、原理的見解では、神は初めに〝ロゴス〟でアダムを構想されたと見る。しかし、創造は、素粒子から原子、分子、そして植物、動物、人間(最終目的)と、〝単純〟なものから〝複雑〟なものへと段階的に発展させながら創造されたというのである。これを、「創造論的進化論」という。

この創造の過程から、鉱物、植物、動物、人間の階層構造を分析すれば、人間は、すべての存在の〝性相〟と〝形状〟の総合実体相(小宇宙)であると知り得るのである。

 

ところで、ティリッヒは、すべての存在者の第一条件は無機物であると、次のように述べる。

 

「無機的次元は、それがすべての次元が現実化する第一条件である限りにおいて、諸次元の中では優先的位置を占めている」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、23頁)。なぜなら、「基礎的条件が消滅するならば、存在のすべての領域は解体する」(同)からである。聖書にも、「あなたは……ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから」(創世記3・19)とある。

 

確かに、無機的次元が第一条件である。この同じ認識を、統一原理では「人間を創造するにあたって、有形世界を感得し、それを主管せしめるようになさるために、それと同じ要素である水と土と空気で肉身を創造された」(『原理講論』83頁)と述べている。

 

次に、有機的次元、すなわち有機的生は植物的領域と動物的領域という二つの次元があり、さらに動物的領域にはもう一つの次元として生の自覚、すなわち精神的なもの(the psychic)が現われているという。

この「有機的次元は自己関係的・自己保存的・自己増殖的・自己継続的諸型体(「生ける総体」)によって特徴づけられている」(『組織神学』第3巻、23頁)というのである。

上述の事柄を言い換えると、植物や動物や人間は、孤立して存在するのではなく、他者との関係存在であり、自己保存的・自己増殖的・自己継続的諸型体であるというのである。

 

ところで、無機的なものから有機的なものが如何にして発生したかに関しては、議論が決着しないまま残っている。科学的で客観的であろうとするティリッヒは、「『最初の細胞』は或る特殊な神の干渉である」という主張に対して、「生物学は超自然的な原因性を拒否(する)」(『組織神学』第3巻、24頁)と述べている。

そして「有機的なものの次元は本質的に無機的なものの次元の中に現存し、それの実際的な発現は種々の条件に依存する。その諸条件を記述することが生物学や生化学の課題なのである」(同)と主張する。

 

しかし、現象学的記述を根拠とした理論的な推論の一つである唯物的進化論が主張するように、生命は、環境的な物資的諸条件が整えば〝自然発生〟するというのであろうか。また、AからBに進化する力は、いずこより来るのであろうか。進化する力は、生物自体の内にはない。したがって、われわれは、進化する力(入力)は、外から来たと考えざるを得ないのである。しかし、生物はどのようにして地球上に発生したのかという「生命の起源」の問題は、未だ決着していない。

 

次に、ティリッヒは「植物的次元から動物的次元への推移、特に個が自分自身を『内的に知覚する』(inner awareness)という現象への推移の問題に対して………潜在的には自意識はすべての次元に現存するが、現実的には、それは動物的存在の次元においてのみ発現する」(同)という。

そして、さらに次元の高い段階の記述に進み、ティリッヒは「内的知覚の想定を、………高等動物に限定することが賢明であるように思われる」と述べ、「内的知覚の次元、すなわち心理学的領域は、自分自身の中にもう一つの次元、すなわち人格的―社会的次元、または『精神』(spirit)の次元を実現する。現在人間の経験の及ぶ範囲内においては、それは人間においてのみ起こった」(『組織神学』第3巻、24頁)と述べている。

 

このように、ティリッヒの現象学的記述は、暗々裏に進化論を否定しているといえよう。

 

ちなみに、ティリッヒは、彼の著『信仰の本質と動態』の中で次のように述べている。

 

「進化論と神学との闘争は、科学と信仰との闘争ではなく、ある種の科学と、ある種の信仰とのあいだの闘争であった。それは人間から人間性を奪い去る信仰を内に秘めた科学と、聖書の直解主義によって神学的表現を(ゆが)められた信仰との、闘争であった。聖書の創造物語を昔あるときに起こった事件の科学的記述と解する神学が、方法的、科学的研究と衝突することは自明である。また先行の生命形態から人間の発生を解釈して、人間と動物との質的区別を認めないような進化論は、科学ではなくて信仰であることもまた自明である。」(ティリッヒ著『信仰の本質と動態』、谷口美智雄訳、新教出版社、104頁)

 

「科学と信仰との闘争ではなく、ある種の科学と、ある種の信仰とのあいだの闘争であった」という主張は傾聴に値する。

ただし、「聖書の創造物語」を文字通りに「6日」で創造したと信じ、それは科学的記述であると解する神学に対して、「聖書に記録された創造の過程が、今日、科学者たちの研究による宇宙の生成(せいせい)過程とほぼ一致するという事実を知ることができる」(『原理講論』75頁)と科学的に解釈し、「6日」を「創造過程の六段階の期間を表示したもの」であり、したがって「この記録が神の啓示である」(同、76頁)と主張する統一原理は、相違している。

一方は似非(えせ)科学であり、他方は真の科学的解釈である。

 

 b. 「生の一次元としての精神の意味」

 

ティリッヒは、精神の次元は人間のみに現われ、精神は「霊魂」(psyche)、「心」(nous)、「理性」(logos)などに関係づけることが望ましいという(『組織神学』第3巻、28頁)。しかし、「霊魂」(soul)という言葉は心理学の中から失われてしまった。現在の心理学は「霊魂」不在の心理学であるという(同)。

また、心という言葉は生物の意識を表現し、意識と知覚と志向性を含んでいる。自意識は、動物の次元に現われ、「それは知性と意志と方向づけられた行動とを含んでいる」(同、29頁)という。

また、理性の概念は、すでに「理性と啓示」において論述されているが、「ロゴス的構造をぬきにしては、精神は何事をも表現することができない」と述べ、「推理の意味における理性は、認識的領域における人間精神の一つである」(同)と述べている。

 

このように、進化を「生の過程」と表現し、人間の精神(心)までを現象学的に記述し、最後に精神の次元の段階で〝究極者〟への関心となると説いていくのである。

 

 c. 「それに先行する諸次元との関係における精神の次元」

 

ティリッヒは、人間が出現するまでの先行する諸次元について、次のように述べている。

 

「生の新しい次元の出現は………ある条件群が無機的領域における有機的領域の出現を可能にする。………それは神の志向的創造性の下における、すなわち、神的摂理の下における自由と運命との相互作用の問題である。むしろ問題は、いかにして潜在的なものの現実化がある条件群から起こるかということである。」(同、30頁)

「無機的次元から有機的次元へ、植物的次元から動物的次元へ、生物学的次元から心理学的次元への推移に関して明白である。これはまた心理学的次元から精神の次元への推移についても真である。」(同、31頁)

 

このように、ティリッヒは「生の過程」の明白な事実を現象学的に記述するのである。

 

 d. 「精神の次元における規範と価値」

 

次に、ティリッヒは、精神の次元における規範と価値の顕現に関する記述へと進むのである。

 

「精神がそれの生物学的・心理学的運命の限界内で自由であるためには……規範があればこそである。……そこで起こってくる問題は、何がもろもろの規範の根源であるか、ということである。」(同、34頁)

 

このように、規範や価値の顕現からその根源が探求されていくのである。

 

彼は、「規範の実用主義的な抽出法によれば、生はそれ自身の規準である。………精神の規準は精神的生の中に内在する」(同)という。

 

さらに、ティリッヒは、実用主義ですら規範と価値論の妥当性を認識していると、次のように述べている。

 

「生活の規範は生の外側で発生するのではない」(同、34頁)。

「実用主義的方法が一貫して倫理的・政治的・審美(しんび)的判断に対して適用される場合には、いつでも、規準が選択されるわけであるが」、どうして規範となり得るかということを証明する仕方を知らない(同、34-35頁)。

しかし、彼らは「精神の次元における規範についての価値論によって明らかに認識されている」という。「価値論は現在の哲学思想において高い位置を占めており」、今日においては「価値論を産出した形而上(けいじじょう)学に逃避することなくして、規範の妥当性を確立した。」「彼らは、実用主義的相対主義や形而上学的絶対主義〔に陥ること〕なくして、妥当性(Geltung)を救おうと欲した」(同、35頁)と述べている。

 

このように、実用主義は規範と価値論の妥当性を認識しているという。

しかし、ティリッヒは、次の問いに対して彼らは答えることができないという。

 

「そのような価値が社会を統制すると主張する根拠は何か。……それらの価値の適切性は何か。いったい精神の担い手である生は、なぜそれらの価値を問題にしなければならないのか。存在に対する義務の関係はどういうものか。」「精神の次元における生に対する規準は生そのものの中に含蓄されている……そうでなければ、それらの規準は生に対して適切ではあり得ないであろう。……人間と人間の世界における本質的なもの、また可能的なものは、そこから精神の次元における生に対する規範が導き出される源泉である。存在の本性、実在のロゴスによって決定された構想は、ストア哲学やキリスト教がそう呼んだように『価値の天国』(heaven of values)であって、価値論はそれを指し示すものである」(同、35~36頁)という。

 

彼は、「生はそれ自身の規準である」「精神の規準は精神的生の中に内在する」「精神の次元における生に対する規準は生そのものの中に含蓄されている」ということから、規範の源泉を究明していくのである。

 

このように実用主義が価値論を認めるなら、結局のところ、その根源である究極者を認めざるを得なくなるというのである。究極者は自己を啓示する。

 

このようにして、究極的啓示であるキリストと「霊的現臨」(聖霊の現臨)によって〝新しき存在〟となるという。また、本質から実存へと分離した生の曖昧(あいまい)性を曖昧ならざる生に統一する力が愛であり、この神の愛によって自己超越し、生の多元的統一がなされていくと説いていくのである。

 

ティリッヒの「生の過程」における諸次元は、正統主義神学が天地創造の神話を文字通りに解釈し、「神が6日間で天地を創造した」、「成人した人間(アダムとエバ)を一瞬のうちに土から創造した」という非科学的見解に対する批判である。

また、生の過程の現象学的記述には、唯物論的進化論に対する批判も含蓄されている。さらに、精神の次元における規範や価値論の根源は、「究極者」(神)であるという。

ここに至って現象学的記述による存在者の各次元への進化は、科学を基盤とした新しい有神論になるのである。この存在論的観点は、統一原理の存在論的観点と一致する。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(21)

『組織神学』第3巻――(生と聖霊論)――

 

(一)「生、その曖昧(あいまい)性、そして曖昧ならざる生の探究」

 

この章において、ティリッヒはすべての存在を「生の過程」として捉え、この「生の過程」をティリッヒ式弁証法で論述する。

ただし、成長過程における堕落は人間のみであって、万物は完成し堕落していない。しかし、ティリッヒにはそのような区別はなく、「生」という存在概念(弁証法的構造)を人間にも万物にも適用する。

 

ティリッヒによると、「生」は無機物、有機物、そして人間精神と発展し、歴史として展開され、そして、その歴史の目標は「神の国」であり、「永遠の生命」であるという。このすべてを「生の過程」であるとし、彼は弁証法で論述するのである。

 

(A)「生の多次元的統一」

 

(1)「生――本質と実存」

 

ティリッヒによると、多くの哲学者は「生」という語を用いることを躊躇(ちゅうちょ)し、それを生物学の領域にのみ限定するが、ヨーロッパ大陸では20世紀初期に哲学の大きな学派が「生の哲学」に関心をもっていた。ニーチェ、ディルタイ、ベルグソン、ジンメル、シェラーなどである。その他、実存主義者に影響を及ぼしたというのである。

 

また、ティリッヒは「アメリカにおいては、『過程の哲学』(philosophy of process)が、ジェームスやデュイー(デューイ)の実用主義によって予兆され、ホワイトヘッドとその学派によって十分に展開された。『過程』(process)という言葉は『生』という言葉ほど曖昧ではないが、表現力においてはるかに劣っている」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、新教出版社、12頁)と述べている。

 

なぜなら、「生体と死体とは同様に『過程』に属しているけれども、しかし、死の事実においては『生』はその否定を含んでいる。『生』という語を強調して用いることは、『生まれかわった生命』(life reborn)とか『永遠の生命』(eternal life)とかいう場合のように、この否定の克服を示すのに役立つ。………生と死との両極性は常に『生』(life)という語を色づけてきた」(同、12-13頁)というのである。

 

このように、ティリッヒの「生の概念」は体系全体の基底をなしている。言い換えると、本質的なものと実存的なものの基盤である。

ティリッヒは「『生』(life)という語をこの本質的な要素と実存的な要素との『混合』(mixture)の意味に用いる」(同、13頁)と述べている。

 

以上のように、ティリッヒは「生の概念」によって、すべての存在の実存的曖昧性(疎外状況)を分析し、また、曖昧ならざる「永遠の生」を叙述しようとするのである。

 

(2)「層」という言葉について

 

事物の多様性の中の秩序に関して、ティリッヒは次のように述べている。

 

「人間は遭遇(そうぐう)する事物の多様性を、統一原理の助けをかりてのみ認識することができる………普遍的な原理の一つは、階層的秩序のそれであって、そこでは事物のあらゆる類と種とが、またそれらを通してあらゆる個物がその場所をもっている。一見して混沌(こんとん)としているように見える実在の中に秩序を発見するこの方法は、存在の等級と層とを見分ける。」(同、14頁)

 

このように、存在の等級と層によって、実在の中に階層的秩序を発見するというのである。

また、自然に階層的秩序があるように、人間社会にも単一者を頂点とする階層的秩序があるという。

 

このことに関して、ティリッヒは次のように述べている。

 

「高度の普遍性とか潜勢力(せんせいりょく)の豊かな発展とかいうような存在論的資質が特定の層に帰せられる場所を決定する。『僧職(そうしょく)職階制度』(hierarchy)――聖礼典的権力の位階(いかい)に従って配置された聖なる支配者団――という古い用語は、この種の思考をもっともよく表現している。それは地上的支配者と同様に、自然における存在の類や種、たとえば無機的なもの、有機的なもの、心理的なものにも適用され得る。この観点においては、実在はその存在の能力と価値の等級に従って垂直的に相重なる層のピラミッドとして見られている。『僧職職階制度』の意味における支配者たち(archoi)の映像はより高い層により高い資格を与えるが、その例示者の量は小さくなる。その頂点は、それが祭司であろうと、皇帝であろうと、神、すなわち一神教の神であろうと、単一者である。」(同、14-15頁)

 

「階層の原理」においては、一つの層から他の層への有機的運動は起こらない。しかし、プロテスタントの原理やデモクラシーの平等の原理は、この「階層の原理」を否定するという。

 

これらに関して、ティリッヒは次のように述べている。

 

「ニコラウス・クザーヌスが『相反するものの一致』(coincidence of opposites)――たとえば無限者と有限者との――原理を定式化し、ルタ-が(聖人を罪人と呼び、神によって受け容れられた罪人を聖徒と呼ぶことによって)『罪人の義認』(justification of the sinner)の原理を定式化するまでは階層の原理が力を失い〔他の原理によって〕置き換えられるということはなかった。それは〔後に〕、宗教的領域においては、万人祭司の教理によって取って代わられ、社会―政治的領域においては、各人における平等の人間性というデモクラシーの原理によって取って代わられた。プロテスタント原理もデモクラシーの原理もともに、互いに独立しながら、階層的に組織された存在の能力の層〔という考え方〕を否定する。」(同、15頁)

 

このような訳で、ティリッヒは誤解されないように、「層」という言葉に対して「次元」という言葉を用いるのである。

 

ところで、ティリッヒはデモクラシーの原理によって階層の原理を否定するが、自然界には大小様々な階層が存在する。しかも、自然界の「層」に属するすべての事物は平均化され平等である。したがって、その「階層の原理」とは何かを究明しなければならない。ティリッヒも事物の平均化を認めて、次のように述べている。

 

「『層』という言葉は、特定の層に属するすべての事物の平等性を強調する表現である。〔そこでは〕事物は平均化されている。すなわち、共通の平面に置かれ、そこに保たれている」(同、15頁)と。

 

したがって、問題なのは、自然界と人間社会の同一の「存在の原理」(「家庭の原理」)とは何かを究明し、「階層の原理」と「平等の原理」の対立を統一することである。

民主主義は自由を主張するが、貧富の格差が生じて平等でなくなる。共産主義は平等を主張するが、自由を否定する。人間社会における自由と平等の原理とは一体何なのか。

文鮮明師は〝神の愛〟において平等であるといわれる。〝神の愛〟によって統一された理想世界は「家庭の原理」を基盤として現れる。

 

(3)「次元、領域、階程」

 

ティリッヒの「生の過程」は、進化論と対比すると分かりやすい。

 

「有機的次元の現実化は無機的次元の現実化なしには不可能であるし、精神の次元は有機的次元の現実化がなければ潜在的にとどまるであろう。………無機的領域が有機的領域における事物の出現を許すまでには幾百万年を経過したことであろうし、有機的領域が言語をもった存在の出現を許すまでにはまた幾百万年を要したことであろう。更に言語の能力をもった存在が、今日われわれが自分自身として知っているような歴史的人間となる前には、幾万年かを経たことであろう。これらすべての場合を通じて、存在の潜在的次元が現実となったのは、すでに〔それ以前に〕常に潜在的に実在したものの実現化を可能ならしめるような諸条件が現存したからである。」(同、18頁)

 

聖書に、神は天地創造に関して6日、すなわち6段階の期間を要したとあるが、ティリッヒはその6日を文字通りに解釈していない。この解釈は、統一原理の創造原理と一致する。

 

また、彼は次のように述べている。

 

「神が自己自身のうちにアトムの可能性を創造したもうた時、人間の可能性を創造したもうた。また神が人間の可能性を創造したもうた時、アトムの可能性と、その両者の中間にあるすべての他の次元の可能性とを創造したもうた。それらすべての次元は、部分的には潜在的に、部分的には(或る場合には完全に)現実的に、すべての領域に現存する。現実化された諸次元のうちの一つがその領域を性格づける。というのは、そこに実現されている他の諸次元は、決定的な次元(それ自身は他の諸次元に対する一つの条件ではない)の現実化のための条件としてそこに存在するだけだからである。無機的なものは有機的なものの現実がなくても現実的であることができる。しかし、その逆ではあり得ない。」(同、19頁)

 

上述の本文に、「神が自己自身のうちにアトムの可能性を創造したもうた時、人間の可能性を創造したもうた」とあり、また「神が人間の可能性を創造したもうた時、アトムの可能性と、その両者の中間にあるすべての他の次元の可能性とを創造したもうた」とあるが、この見解は、統一思想の「存在者の性相・形状の階層的構造」(『新版・統一思想要綱(頭翼思想)』166頁)と同じ見解である。

創造原理的に見れば、神の創造目的の最終目標は、人間創造(アダムとエバ)である。したがって、神の創造論的進化は無機物から有機物へと進化し、さらに、有機物は最終目標(人間の創造)に向かって進化してきたのである。

 

つまり、進化に方向性(内的目的)があるというのである。単純なものから複雑なものへの進化、下等なものから高等なものへの進化は、個物が他の存在と無関係に、偶然に、無目的に、進化してきたのではない。進化は、最終目標に向かって進化してきたというのである。

このように、ティリッヒは、ビックバンから始まった神の宇宙創造、すなわち、無機物と有機物の創造過程を「生の過程」と表現し、階層を〝次元〟として現象学的に記述するのである。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(20)

(7)「キリストとしてのイエスの事件の普遍的意義」

 

 a. 「キリスト論と救済論の結合」

 

ティリッヒは、キリスト論は救済論の一機能であるという。言い換えると、(ふる)い存在、すなわち実存的疎外と自己破壊から人々を救済することが、キリスト論の職能(しょくのう)であるというのである。

 

「キリスト論は救済論の一機能である。救済論の問題がキリスト論的な問いを生じ、またその答えを方向づける。というのは新しき存在をもたらし、それによって旧い存在すなわち実存的疎外と自己破壊から人々を救済することがキリストの職能であるからである。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、192頁)

 

近代神学においては、シュライエルマッハー以来、キリスト論と救済論の緊密な結合が主張されるのが通例であった。しかし、キリスト論と救済とは分離できないことは明瞭であるが、パネンベルクはキリスト論と救済論のこのような結合に含まれている危惧もまた同時に現われると、次のように述べている。

 

「ほんとうにイエス自身について語られているかどうかという点である。そこでは、人間の救いと神格化への願望の投影が、むしろ問題の中心になっていないであろうか。そこでは、神に似た者になりたいという人間の努力、犯した罪を償わねばならぬ人間の義務、自らの罪責をおぼえて、破滅にとらわれている体験の投影といったものがあるのではないのか。また、新プロテスタント主義において最も明瞭に表れているように、完全な宗教性・完全な道徳性・純粋な人格性・積極的な信頼といった理念をイエスの姿に投影しているのではないのか。ここで、単に人びとの憧憬のみが、イエスに具現されたり、投影されたりしているのではないのか。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク、新教出版社、40頁)

 

そして、次のように述べている。

 

「キリスト論は、私たちにとっての有意義性、つまりそれを直接には宣教が供する有意義性から出発するのではなく、ナザレのイエスから出発しなければならない。イエスの有意義性は、地上のイエスが実際にどのような方であったかということから展開されねばならない。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク、新教出版社、41頁)

 

さらに、次のように述べている。

 

「この意図は一般に、キリスト論の伝統の基礎となっていると言ってよい。カント、シュライエルマッハー、ブルトマン、ティリッヒのような例外を除けば、ナザレのイエスの事実に根ざした現実性を犠牲にして、意識的に救拯(きゅうじょう)論的な関心の視野から考えられるようなことはなかった。」(同、41頁)

 

しかし、反論として、「アタナシオスは常に救済論的観点に立って論じている。主は完全なる神であると同時に完全な人間である。そうでなければ救いは成就されない。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、日本キリスト教団出版局、119頁)と解説されていることを指摘しておかねばならない。

 

しかし、次の点は傾聴に値する。

 

「『そもそもキリスト論は救拯論の一機能である』といったティリッヒによるほど無遠慮に表現されたことはない。………ブルトマンと彼の弟子たちにおいても、〈イエス自身、つまり、史的イエスが問題ではなく、新しい実存の可能性の開発として、私たちにとっての彼の『有意義性』のみが重要である〉とはっきり言っているときに、危険は明らかとなる。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク、新教出版社、40頁)

 

結論として、パネンベルクは次のように述べている。

 

「彼の人格についての問いであるキリスト論は、イエスの有意義性についてのすべての問い、つまり、すべての救拯論に先行されねばならない。救拯論は、キリスト論の後に続かねばならないのであって、その逆であってはならない。」(同、41頁)

 

統一原理の「キリスト論」は、第一節「創造目的を完成した人間の価値」、第二節「創造目的を完成した人間とイエス」、第三節「堕落人間とイエス」を論じた後に、「救済論」として、第四節「新生(重生(じゅうせい))論と三位一体論」が論じられている。

「創造目的を完成した人間」とは、最初に、神との一体性の問題を論述しているのである。

 

創造原理は、人間の二性性相の実体的な展開として創造したのが被造物であり、人間は天宙を総合した実体相であると論じている(『原理講論』84頁)。創造目的を完成した人間とはキリストのことであり、これは宇宙論的キリスト論である。有形なる宇宙の中心がキリストであると述べているのである。

 

近代神学において、キリストは人類の歴史との関係でのみ問題とされ、キリストの出来事を地球環境や宇宙全体との関わりで理解することはほとんどなかった。それで、現在の環境破壊に対する神学的取り組みを困難なものにしているのである。

「科学的宇宙論との積極的な関係構築を試みるだけの基礎作業が神学の側に欠けているため、本格的な『自然の神学』『コスモロジーの神学』は現在のところ存在しない………現代神学はこれについて本格的な議論を展開する基礎(キリスト論的な)を失っているからである。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、557頁)

 

このような問題提起に対し、すでに答えているのが統一原理のキリスト論、すなわち「創造目的を完成した人間の価値」(宇宙論的キリスト論)なのである。

 

 b. 「イエスの普遍性」

 

ところで、ティリッヒは、イエスの「実在的」形象の持つ具体性と唯一性によって普遍性が論証されるという。なぜイエスがすべての宗教を統一する普遍的存在であるのかという問題である。

 

「キリストとしてのイエスはいかなる意味で、またいかなる仕方で救済者であるか。………キリストとしてのイエスの事件は、いかなる仕方で万人にとって、また間接的には宇宙にとって普遍的意味を有するか。これをわれわれは問わなければならない。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、192頁)

 

ティリッヒは次のように述べる。〝聖書におけるイエスの形象は、唯一的事件である。かれの性格、かれの置かれた歴史的状況において、かれは唯一的である。当時の(みつ)()宗教的儀礼(ぎれい)覚知(かくち)主義的洞察(どうさつ)に対する優位は、まさにこのイエスの「実在的」形象の持つ具体性とその比較を絶した唯一性のゆえであった。〟(同、192-193頁参照)

 

「かれのすべての発言と行動を通して一個の実在的個性的生が輝き出ている。これに比すると、密儀宗教的儀礼の神々の姿像は抽象的であり、現実に生きられた生涯の新鮮な色調を欠き、歴史的運命と有限的自由の諸緊張とを欠いている。キリストとしてのイエスの形象は、その具体的実在性の力によってかれらを征服した。」(同、193頁)

 

このように、事実によって普遍性が論証される。

ティリッヒは、実存への服従は「キリストの十字架」の象徴によって、実存への勝利は「キリストの復活」の象徴によって実現されたという。ただし、象徴や神話は字義通り解釈されるとその意義を失うことを、ここでも強調している。すなわち、「非直解化」(非神話化)しなければならないというのである。ただし、十字架の死と復活をどのように非直解化するのかに関しては明確ではない。

 

(8)「救済力としての、キリストとしてのイエスにおける新しき存在」

 

キリスとしてのイエスは新しき存在であり、新しき存在を創造する力である。

 

「キリスト教が出現した世界は、魔的世界に対する恐怖に満ちていた。………魔的諸力は霊魂と神との再結合を阻止(そし)する。それは、人間を束縛(そくばく)して実存的自己破壊の支配下に(つな)ぐ。キリスト教の使信(ししん)は、この魔的諸力の恐怖からの解放の使信であった。だから贖罪(しょくざい)の過程は解放の過程である」(同、218頁)と。

 

ちなみに、再臨主による〝聖酒式〟は原罪清算(サタンの血統を清算する式)である。「イエスの体」と「堕落人間の体」の相違は、原罪があるか、ないかである。「真の父母様」による祝福結婚は、原罪を清算して「新しき存在」に新生(重生(じゅうせい))することであり、「実存的疎外の下」(魔的諸力)からの解放・釈放である。

これがキリストの救済力である。キリストの使信が一切を解放する。

 

「サタンは元来、血統的な因縁をもって堕落した人間に対応している」(『原理講論』273頁)。したがって、「堕落人間がサタンを分立して、堕落以前の本然の人間として復帰するには、原罪を取り除かなければならない」(同、271頁)のである。

 

パウロは、「神の子たる身分」を授けられるために、「体のあがなわれること」(原罪清算)を待ち望んでいると、次のように述べている。

 

「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、体のあがなわれることを待ち望んでいる。」(ローマ8・23)

 

ティリッヒは聖化(せいか)に関して、対社会的に次のように述べている。

 

「聖化は、新しき存在の力が教会の内外の個人・団体を改変する過程である。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、227頁)

 

ティリッヒは、キリスト(仲保者、(あがな)い主)が「あらゆる治癒(ちゆ)過程・救済過程の究極的基準である」(同、213頁)という。

また、キリストの使信が一切を解放する。「人類のいかなるところにある救済力も、キリストとしてのイエスの救済力によって判定されなければならない」(同)という。

 

文鮮明師の御言と原理は、イエス・キリストの使信と一致することが判定されるであろう。

イエスは〝個人路程〟の霊的救済を歩み、再臨主はそのイエス様が残した〝家庭路程〟を歩んで、霊肉両面の救済(堕落性とサタン的血統の清算)を成し、成約聖徒と共に天上天国と地上天国を創建していく。

 

ティリッヒの『組織神学』第2巻(1957年刊)は、第1巻(1951年刊)の6年後に現われた。第3巻(1963年刊)は、それよりもさらに6年後に出版された。

 

 

「補足」(「神の本体」)

 

「三位一体」と「天の父母」という神概念の同一は、統一原理の「キリスト論」と「神の成長」という概念によって存在論的に論証される。

(1)「『神様の成長』という概念について」

 

文鮮明師は、「幼児が成長したのちに結婚をするということ、これは、夫婦の位置を尋ね求めていくことであり、父母の位置を尋ね求めていくことです。神様と一体になる位置を尋ね求めていく道です」(八大教材・教本『天聖経』「真の家庭と家庭盟誓」、2336頁)と語っておられる。

 

このように、「人間の成長と人生の目標」に関して、それは、幼児が成長して結婚し、父母となり、神様と一体になることであると簡潔・明瞭に語っておられるのである。

 

次に、「神様の成長と人間の成長の関係」について、それがいかなる関係にあるかを知らなければならない。

 

文鮮明師は、この点について、次のように語っておられる。

 

「神様も赤ん坊のような時があり、兄弟のような時があり、夫婦のような時があり、父母のような時があったので、そのように創造されたのです。」(八大教材・教本『天聖経』「宇宙の根本」、1591頁)

「人間創造とは、神様ご自身が成長してきたことを実際に再度展開させてきたものです。」(同、1590頁)

 

このように、文鮮明師は、「神様ご自身が成長してきた」といわれている。今までの神学は、神様は永遠・不変、唯一・絶対なるお方であると捉えてきたが、「神様の成長」「神様の発展」という概念を知らなかった。これは驚嘆すべき御言(みことば)である。

 

聖書を見れば分かるように、イエス様は、幼少期、青少年期、成人、と成長していかれた。したがって、「神様の成長」という概念が出てきていると言える。しかし、イエス様は、結婚されなかった。上述の文師の御言により、神様とイエス様の願いは、さらに結婚して、「真の父母」になることであったと理解することができる。

 

「神様の願いは『天の父母』になること」

 

アダムとエバは神様の真の相対であると、文鮮明師は次のように語っておられる。

 

「神様の心中にある無形の子女、兄弟、夫婦、父母として、真の愛の実体完成を望んでアダムとエバの二人を創造したのです。それは、神様が実体として子女の真の愛の完成を願い、実体家庭の兄弟として、実体の夫婦として、実体の父母として、神様の真の愛の相対として完成を願われたからです。」(同、「真の家庭と家庭盟誓」、2336頁)

 

このように、アダムとエバは神様の実体として成長し、完成していくというのである。

 

ところで、文師は「アダムとエバの結婚式は神様の結婚式である」と、次のように語っておられる。

 

「横的な父母であるアダム・エバは神様の体であり、縦的な父母であられる神様が心なのです。神様は、アダム・エバの心なのです。ここで心と体が一つになって愛するとき、アダム・エバの結婚式は『体』的な父母の結婚式であると同時に、『心』的な神様の結婚式になるのです。」(『ファミリー』1999年1月号、21~23頁、第39回「真の子女の日」記念礼拝の御言)

 

そして、真の父母になる意義について、文鮮明師は次のように語っておられる。

 

「アダムとエバが真の愛で完成することは、まさに神様が実体を身にまとう願いが成就するのです。………アダムとエバが善なる子女をもって真の父母になることは、まさに神様が永存の父母の位を実体的に確定」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』、29頁、「救援摂理史の原理観」)することなのです。

 

このように、アダムとエバが「真の父母」になることは、まさに神様が永存の父母の位を実体的に確定することであると言われているのである。

神様が「天の父母様」になられるという意義が、ここにあるのである。繰り返して言えば、アダムとエバが「真の父母」として完成すれば、無形なる神様も完成した「真の父母」になるということである。そして「真の父母」の体を用いて、有形なる天地万物を直接主管されるというのである。

 

このように、「真の父母」になることが神から見れば〝創造目的〟であり、人間から見れば〝人生の目的〟なのである。

 

ティリッヒが、次のように言っていたことを想起していただきたい。

 

「『ロゴスが肉となった』というヨハネ的発言に従うべきであろう。『ロゴス』は、神と宇宙における、また自然と歴史における神の自己顕現の原理である。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、118頁)

 

以上が、神に〝成長〟という概念があるのであり、その「神の成長」という概念から見た「神の自己顕現の原理」に関する解説である。

 

(2)「三位一体と天の父母という神概念の同一」について

 

聖書には、「神の定義」はないという神学者がいるが、聖書によると、神の()姿(すがた)として、無形なる神の有形なる分立実体対象としてアダムとエバが創造されたと定義されている(創世記1・27)。

同様に無形なる神の分立実体対象が、イエスと聖霊(霊的実体)である。したがって、「神―アダム―エバ」と「神―イエス―聖霊」の関係は〝類比関係〟にある。この類比から、三位一体論を再考察する必要性があるのである。

 

統一原理の三位一体論は、「神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合性一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった」(『原理講論』、267頁)とあり、同様に、「イエスと聖霊は、神様を中心として一体となるのであるが、これがすなわち三位一体なのである」(同)と述べている。したがって、三位一体論のエバに対応する聖霊は、〝女性である〟と言えるのである。

 

無形なる「神の本体」は、統一原理によると、真の愛を中心とした「二性性相の中和的・統一体」なのである。神の二性性相とは、神の神的な男性的要素と神的な女性的要素をいう。その無形なる神の二性性相の分立実体対象が、アダムとエバであり、イエスと聖霊なのである。

 

「三位一体」とは、無形なる神様を中心として、有形なるイエスと聖霊が一体となることである。神とイエスが一体であり、神と聖霊が一体なのである。

イエスと聖霊は、アダムに対するエバとの〝類比関係〟にあり、神から分かれた二つは、イエスの復活後、霊的に一つになったのである。これが、伝統的な三位一体論の諸概念の形式から自由な立場で実質を表現した「霊的な三位一体論」なのである。

 

アダムとエバは完成を目指して成長していた。しかし、未成年期でサタンの誘惑によって堕落して人類を繁殖し、「偽りの父母」となった。それで、サタンの支配下で人間は生まれながらにして神から離反(疎外)した存在となっているのである。つまり、人間の疎外は普遍的現実となったのである。

 

第二アダムであるイエス様も、幼少から成長して成人となられ、そして、結婚して「真の父母」となることを願われた。しかし、十字架の死によって肉体を奪われたので、神が実体として父母となることができなかったのである。それで、再臨して実体の父母となる天的使命を果たされることを約束されるのである。

 

アダムの相対がエバである。同様に、霊的イエスの相対が聖霊(女性)である。イエス様は「霊的な真の父母」(霊的な三位一体)になられ、信仰者を霊的に新生されるのである。

イエスの残された〝家庭路程〟を、結婚して歩まれた再臨のメシヤは、実体の神の体として、「実体の真の父母」(実体的な三位一体)として完成された。そして、人類を霊肉両面においてを重生(じゅうせい)(原罪清算)し、サタンの支配圏から人間を解放・釈放されているのである。

 

また、万物の主管者である人間(アダム)の完成は、万物の救いでもあるのである(ローマ8・19-21)。

 

以上のように、イエスの復活である再臨主は、実体の「真の父母」(実体的な三位一体)となられたので、神も「天の父母」になられたのである。

 

結論として、次のように言える。

神を中心とした真の父母は、実体的な三位一体である。無形なる神が有形なる「真の父母」の姿として顕現されているというのである。言い換えると、「真の父母」は神様の体である。

 

存在論から見て、「三位一体」と、神を中心とした「真の父母」は同一である。というのは、「神を中心としたイエスと聖霊」と「神を中心とした真の父母」は同じ様式による「三位一体」であるという意味である。

イエスと聖霊は「霊的な三位一体」となり、真の父母は「霊肉の三位一体」なのである。

 

「霊的な三位一体」と「霊肉の三位一体」の相違について、前者は霊的救いを与え、後者は霊肉両面の救いを与える。

パウロは「神の子たる身分」を授けられるために、「体のあがなわれること」(原罪清算)を待ち望んでいると、次のように述べている。

 

御霊(みたま)の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。」(ローマ8・23)

 

このように、イエスと御霊(聖霊)によって新生した「最初の実」であるキリスト者パウロが、なおも「からだのあがなわれること」を待ち望んでいるのである。

 

したがって、イエスはキリスト者の「からだをあがなわれる」ようにするために再臨されるのである。すなわち、再臨のキリストは実体の神の体として、「実体の真の父母」(霊肉の三位一体)として完成され、そして、人類を霊肉両面において重生(じゅうせい)(原罪清算)し、サタンの支配圏から人間を解放・釈放されるのである。

 

以上が、存在論から見た「三位一体と天の父母という神概念の同一」と「霊的な三位一体」と「霊肉の三位一体」の相違に関する霊的救いと霊肉両面の救いの説明である。

 

無形なる神の有形実体である「真の父母」による霊肉両面の救いは、地上天国(神の国)がそこに現われていることを示している。

 

文鮮明師の八大教材・教本に『天国を開く門 真の家庭』と『平和の主人、血統の主人』がある。この二つの本の表題の意味は深い。「真の家庭」とは、メシヤの家庭のことである。平和の主人、血統の主人とは誰のことなのであろうか。

  ―「補足」の項、以上―

 

 

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(19)

(5)「キリスト論的教理の発展における危険と決定」

 

a. 「神性と人性」

 

ティリッヒは「キリスト論」について、常にイエスの〝キリスト性〟の否定と、〝イエス性〟の否定という二つの危険性があることを、次のように指摘する。再臨主に関しても同様である。

 

「キリスト論的発言を脅かす二つの危険性が、イエスはキリストであるとの主張の直接的結果としてでてくる。この主張を概念的に解釈しようとする試みは、現実的には、キリストとしてのイエスのキリスト性の否定となったり、あるいはまた、キリストとしてのイエスのイエス性の否定となったりする。キリスト論は、常にこの二つの大きな谷間にはさまれた尾根の上を歩まねばならず、決して完全に成功しえないことを知らねばならない。というのは、それは神的神秘に触れる問題であり、神的神秘はその顕現のなかにおいてさえどこまでも神秘にとどまるからである。

伝統的用語では、この問題はイエスにおける神性と人性の関係として論ぜられた。人性の減少は、実存の諸制約へのキリストの全的関与性を奪い去るであろう。また、神性の減少は実存的疎外へのキリストの全的勝利を奪い去るであろう。いずれの場合も、かれは新しき存在の創造ではありえないであろう。かれの存在は新しき存在以下になるであろう。したがって問題は、完全な人性と完全な神性との一体性をいかに考えるべきかにあった。………

キリストにおける神人両性の教説は正しい問題を提出しているが、誤った概念的手段を使用している。その根本的な不適切性は、神または人の「性」(nature)の概念にある。この概念は、それが人間に適用されると両義的であり、神に適用されると誤りである。これが、ニケア会議やカルケドン会議などの諸会議の実質的真理と歴史的意義にもかかわらず、その不可避的最終的失敗の理由を説明する。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、181-182頁。注:太字は筆者による)

 

b. 「二種類の人間」(「真の人」と「堕落人間」)

 

原理的に考察すると、「完全な人性と完全な神性との一体性をいかに考えるべきか」に関して、神と人間の関係には「本然の人間」(真の人)と「堕落人間」という二種類の人間観があるという点が、解決の着眼点であるといえよう。父と子との間にいかなる相違があるというのであろうか。本来、神と人間は〝親子の関係〟であり、親子という以外に「神」と「真の人」(本然の人間)の間に相違はない。

 

人間の精神には原罪と堕落性がある。したがって、神性と人性は一つになりえない。しかし、「本然の人間」(真の人)である「イエス」(ティリッヒがいう「新しき存在」)には原罪も堕落性もない。

キリストは、本質的に神人一体化した「真の人」(完全な者)である。したがって、イエスにおいて神性と人性が一つになっているのである。

 

ただし、イエスにおける両性の一致は生れながらであり、また原罪がないので、イエスの人性は堕落人間の人性ではないのである。イエスは神の体である。神とイエスとの関係は、心と体との関係にたとえられる。ロゴスが実体として定着した完成人間である。神と人との仲保者である。

 

統一原理は、堕落人間がキリストによって新しき存在に再創造(重生)されれば、キリストの形象に似て「完全な者」(マタイ5・48)になり得ると説いている。

 

統一原理は、「キリスト論」で次のように述べている。

 

「イエスを神であると信じる信仰に対しては異議がない。なぜなら、完成した人間が神と一体であるということは事実だからである。また原理が、イエスに対して、彼は創造目的を完成した一人の人間(真の人)であると主張したとしても、彼の価値を決して少しも下げるものではない。ただ、創造原理は、完成された創造本然の人間の価値を、イエスの価値と同等の立場に引きあげるだけである」(『原理講論』257頁)

 

以上が、神性と人性の一体性についての問いに対する原理的な答えである。ただし、統一原理は、賢明にも誤解を招くような〝神性〟と〝人性〟という概念を用いていない。

 

ティリッヒは、これらの問題に関して次のように述べている。

 

「教会の死活問題としてアタナシウスによって守られたニケア会議の決定は、啓示と救済に関するキリストの神的力の否定を許し難いものにした。ニケア論争の用語では、キリストの力は神の自己顕現の原理としてのロゴスの神的力である。ここから、ロゴスはその神的力において父と同等であるか、それ以下であるかの問題が起こる。もし第一の答えが与えられると、サベリウス的異端におけるように父と子との区別が消滅してしまうようにみえる。もし第二の答えが与えられるならば、アリウス的異端におけるように、ロゴスはたとえそれが一切の被造物のうち最大のものと呼ばれてもなおやはり一個の被造物であり、したがって被造物を救うことができないことになる。真に神である神のみが新しき存在を創造することができるのであり、半神にそれはできない。この思想を表現すべきものが、“homo‐ousios”(同一本質の〔同じ存在の力の〕)の語であった。しかしその場合でもなお半アリウス派はさらに問いを発することができた――では、父と子との間にいかなる相違がありうるか、地上のイエスの形象は全く理解不可能とならないであろうか、と。この問いに対してアタナシウスや多くのかれの親しい追従者たち(例、マルケルス)は答えに(きゅう)した。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、182頁。注:太字は筆者による)

 

アタナシウスは神とイエスは同質(同一本質“homo‐ousios”)であると主張した。

しかし、イエスが神であるなら、ティリッヒは「地上のイエスの形象は全く理解不可能とならないであろうか」と述べている。一例をあげると、「荒野を40日のあいだ御霊(みたま)にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた」(ルカ4・2)と記述されているが、イエスが神御自身であるならば、神がサタンから試練を受けることなどは理解不可能である(『原理講論』260頁を参照)。したがって、「父と子との間にいかなる相違がありうるか」という問題が生じる。

 

それゆえに、「答えに窮した」とあるが、われわれは「なぜ窮したのか」と問わなければならない。このように、イエスの人性と神性に関してどのように捉えるかで論争が続いたのである。

 

「本然の人間」(新しき存在=無原罪のイエス)の人性は原罪のある「堕落人間」の人性(「人間精神」)と相違する。「本然の人間」(真の人)の神性と人性の一体化は半神的神ではない。イエスは神人一体化した完全な人間である。

 

イエスと人間の本質的相違は原罪があるか、ないかである。統一原理は、「創造目的を完成した人間とイエス」の間には差異がないと述べている。

 

c. 「キリスト論と三位一体論との関係」

 

次の本文は「三位一体論」に関するものである。

 

「ニケア会議の決定は、たとえそれが三位一体論的教理にも基本的貢献をしたにしても、やはりキリスト論に根ざすものである。同様に、コンスタンティノポリス会議(三八一年)におけるニケア信条の再主張と拡大は、たとえそれがロゴスの神性に聖霊の神聖を付加したとはいえ、やはりキリスト論的発言であった。もしキリストとしてのイエスの存在が新しき存在であるならば、かれをしてキリストたらしめるものは人間イエスの人間的精神ではなく、ロゴスと同様な神におとらぬ神的精神でなければならない。………ただここで言えることは、三位一体的象徴は、もしそれがそれの根ざす二つの経験――生ける神の経験と、キリストにおける新しき存在の経験――から切り離されるならば、所詮(しょせん)は空虚なものとなってしまうということである。アウグスティヌスもルターも、この事情を感じていた。アウグスティヌスは、三位一体における三つのペルソナ(現代語における人格の意味ではない)はいかなる内容をも持たず、『特定の何かを言うためではなく、沈黙のままでいないために』用いられたものであることを知っていた。事実、『生まれない』、『永遠に生まれ』『………より出て』などの用語は、たとえそれが象徴と解する――象徴にちがいないが――としても、何ら象徴的表象として有意味なものを示さない。ルターは、『三位一体』のような語を奇妙な笑うべき語と考えたが、しかし他の場合と同様にこの場合にも、より良い語がないことを知っていた。かれは三位一体的思想の二つの実存的な根を知っていたから、三位一体的弁証法を無意味な数の遊戯とみなす神学を(しりぞ)けた。三位一体論的教理はキリスト論的教理の補強的部分であり、ニケア信条の決定は〔空虚な三位一体論的思弁のためのものではなく〕キリスト教を半神的神の儀礼への逆転から救った。それはキリストとしてのイエスから新しき存在の創造力を奪う恐れある解釈を斥けた。」(同、183頁。注:太字は筆者による)

 

このように「初期教会の二大決定によって、キリストとしてのイエスの事件のキリスト的性格とイエス的性格との両方が保存された」のである。

ティリッヒは、「ルターは、『三位一体』のような語を奇妙な笑うべき語と考えた」と述べている。「人格」(ペルソナ)という語は、独立した個人の人格を意味する。そうすると、三位一体における三つのペルソナは〝三人の神〟がいることになり、「唯一の神」と矛盾することになる。それで、現代語の〝人格〟の意味ではないと解説しているのである。つまり、「数の遊戯(ゆうぎ)」ではないと言って誤魔化(ごまか)しているのである。

 

文鮮明師は、次のように語っておられる。

 

「神様が二性性相の主体であられるように、神様が自分の二性性相を展開し、神様の形状どおり万宇宙を造り、人間を造ったのです。アダムは神様の男性的性稟(せいひん)を展開させたものであり、エバは神様の女性的性稟を展開させたものなのです。このように見るとき、私たち一般人が普通『天のお父様!』と言うのは、お一人ですからそのように言うのでしょうが、そのお一人という概念の中に『天のお父様、お母様』という概念が入っているというのです。」(八大教材・教本『天聖經』「成約人への道」1421頁)

 

「神様が二性性相(男性的性稟と女性的性稟)の主体であられる」という存在論から見た神観と、「天のお父様!」と言うのは、「お一人という概念の中に『天のお父様、お母様』という概念が入っている」という説明によって、「唯一の神」と「三位一体の神」の矛盾の問題が存在論の観点から解決するのである。

 

すなわち、「唯一の神」(神様が二性性相<男性的性稟と女性的性稟>の主体であられる)と「三位一体の神」(「神-アダム-エバ」あるいは「神-イエス―聖霊」と「神を中心とした真の父母」)が存在論的に類比の関係にあるという観点から同一であると言えるのである。

ただし、「唯一の神」は無形であるが、「三位一体の神」は無形なる神が有形なる「アダムとエバ」あるいは「イエスと聖霊」、そして「真の父母」として顕現したという相違がある。

 

統一原理(文鮮明師の神学思想)は、三位一体論を信仰からではなく普遍的な存在論から論じているのである。

 

(6)「現代神学のキリスト論的課題」

 

以上のごとく、ティリッヒはキリスト論的実質を表現しうる「新しい形式」を見出す試みをしなければならないという。そして、新しき存在である一人間の形象、実存的疎外を克服しうる一人間の形象とは、神が独特の仕方でそこに顕現している一人間の形象であるという。

これは、統一原理のキリスト論の思想それ自体であるといえよう。

 

原理的に言えば、「神が独特の仕方でそこに顕現している一人間の形象」とは、生まれながらにして無原罪のイエスの形象のことである。

人間がメシヤに「接ぎ木」されて原罪を清算し、堕落性を脱ぐなら、個性完成したイエスと同じ価値をもつ存在になり、「神が独特の仕方でそこに顕現」するようになるというのである。

 

キリストの形象に似ること、これが救いの目標である。神から見た歴史の目標は、ただ一人のメシヤ(キリスト)をこの地上に送ることにあるのである。

 

ティリッヒは、「『ロゴスが肉となった』というヨハネ的発言に従うべきであろう。『ロゴス』は、神と宇宙における、また自然と歴史における神の自己権限の原理である」という。

神が、どのような原理によって歴史の中にキリストとしてのイエスとして顕現したのであろうか。それを具体的に解明したのが、統一原理の「復帰原理」である。

 

ところで、われわれと同じ人間マリヤから生まれたイエスが、なぜ無原罪であるのかという問題がある。これは誰にも解けないミステリーである。

聖なる処女マリヤから生まれたからというが、なぜ「聖なる処女」といわれるのか、その根拠を示していない。〝胎中聖別〟はタマルの腹中での双子(長子ゼラと次子ペレヅ)の闘いで、次子が長子として出てきたことと関係があるのであるが(創世記38・28-30)、このようなことが、なぜ旧約聖書に記述されているのか、これは「統一原理」の堕落論が分からなければ解けない問題である。

 

また、〝聖霊〟によって生まれたからというが、洗礼ヨハネもそうである。彼が胎内にいる時、母エリサベツも聖霊に満たされていた(ルカ1・15、同1・41)。洗礼ヨハネも無原罪のキリストになるのであろうか。そうではない。

 

文鮮明師は、これらの謎を八大教材・教本『天聖経』の「罪と蕩減復帰」と『祝福家庭と理想天国』(1)に掲載されている「救援摂理史の原理観」の中で、イエスの無原罪の問題を解明されている。

 

a. 「過去のキリスト論はすべて不適切」

 

過去のキリスト論は、プロテスタント教会が現代果たさなければならないキリスト論的課題に不適切であると、ティリッヒは次のように述べている。

 

「『カトリック的』な伝統が初期教会の二大決定(ニケア、およびカルケドン)の実質に基づいているかぎり、プロテスタント神学もそれを受容しなければならない。しかしプロテスタント神学はさらにそれを越えて、過去のキリスト論的実質を表現しうる新しい形式を見出す試みをしなければならない。………それは、過去数世紀のプロテスタント神学における正統主義的キリスト論に対しても、また自由主義的キリスト論に対しても批判的態度をとることを意味する。プロテスタント正統主義の発展は、その古典的時期においても、またその後の再定形化においても、キリスト論的問題の古典的用語による理解可能な解決が不可能であることを示した。神学的自由主義は、その歴史的批判的研究(例、ハルナックの『教理史』)によって、神人両性説によるキリスト論的問題解決の試みがすべて不可避的に矛盾と不条理に追いこまれることを示した点で功績がある。しかし、自由主義自体は体系的な面でキリスト論に大した貢献をしなかった。自由主義は『イエスはイエスによって伝えられた福音に属しない』ことを主張することによって、キリスト・イエスの事件のキリスト的性格を排除した。アルベルト・シュヴァイツェルのような、イエスの使信(ししん)の終末観的性格、またその終末観的図式の中心人物としてのイエスの自己理解、を力説する歴史家たちでさえ、その終末観的要素をかれら自身のキリスト論に使用しなかった。かれらはそれを黙示文学的脱自(だつじ)から生じた奇妙な空想的合成として削除した。事件のキリスト的性格がイエス的性格のなかに吸収された。しかし自由主義神学をアリウス主義と同一視することは公平ではない。そのイエス形象は半神的イエス形象ではない。むしろそれは神が独特の仕方でそこに顕現している一人間の形象である。しかしそれはその存在が新しき存在である一人間の形象、実存的疎外を克服しうる一人間の形象ではない。プロテスタント神学の正統主義的方法も自由主義的方法も共に、プロテスタント教会が現代果たさなければならないキリスト論的課題に不適切である。」(ティリッヒ著『組織神学』2巻、185-186頁。注:太字は筆者による)

 

このように、ティリッヒは既存神学のすべてのキリスト論を不適切と言い切る。そして「キリスト論的実質を表現しうる新しい形式を見出す試みをしなければならない」というのである。

 

しかし、ティリッヒのキリスト論に対して、次のように批評されている。

「ティリッヒのキリスト論は、人間疎外とその克服という点から展開されている点に大きな特徴がある。………ティリッヒのキリスト論は、ブルトマンのそれとは違った意味において、現代におけるキリスト論の最もすぐれた実存論的解釈と言えるであろう。しかしケーラーやブルトマンの場合と同様、彼の場合にもイエスの歴史性が正当に評価されているとは必ずしも言いがたいであろう。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、日本キリスト教団出版局、520頁)と批評されている。

 

このように、「イエスの歴史性が正当に評価されているとは必ずしも言いがたいであろう」と言われている。周知のように、パネンベルクは「キリスト論は………何よりも、地上におけるイエスの活動と運命にその基礎をもっている」(W・パネンベルク著『キリスト論要綱』、13ページ)といい、「歴史の復権」(史的イエスの研究)を強調する。

 

これに対して、統一原理(啓示=神の御言・天的宣言)は「創造目的を完成した人間」から見た「キリスト論」である。イエスの歴史性の正当な評価に関しては、統一原理(『原理講論』)の「メシヤの降臨とその再臨の目的」や「イエスを中心とする復帰摂理」等で説かれている。シュヴァイツアーの『イエス小伝』で叙述されている十字架以前のイエスの地上の公生涯は一体何であったのか、という問いに対しても正当に答えている。

 

b. 「霊的な三位一体論と実体的な三位一体論」

 

三位一体論について、統一原理は次のように理解している。

イエスと聖霊とは、神を中心とする霊的な三位一体をつくることによって、〝霊的真の父母〟の使命を果たし、霊的新生(霊的重生(じゅうせい))の使命を果たされた。それゆえに、未だ、信徒たちは〝霊的子女〟の立場に留まっているのである。

したがって、イエスと聖霊は、神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉ともに真の父母となり、堕落人間を霊肉ともに新生(重生)させるために再臨されるのである(『原理講論』「三位一体論」、268頁を参照)。

 

このように、既存の三位一体論の形式から自由な立場で三位一体論的実質を論述している。

 

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(18)

(二)「キリストの現実性」

 

(A)「キリストとしてのイエス」

 

ティリッヒは、「キリスト教がキリスト教であるのは、『キリスト』と呼ばれたナザレのイエスが現実にキリストであること、すなわち、かれが事物の新しい状態・新しき存在をもたらす人であることを主張するからである。イエスがキリストであるとの主張が維持されるところに、キリスト教使信(ししん)がある。この主張が否定されるところにはキリスト教使信はない」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、123頁)という。

 

また、「実存的疎外の克服者」であるイエスと彼の「死」について、次のように述べている。

 

「実存的疎外の克服者たるかれが実存的疎外とその自己破壊的諸結果にみずから関与し〔死な〕なければならないという逆理である。これが福音の中心的物語である」(同、124頁)と。

 

ただし、ティリッヒは説いていないが、福音書から使徒行伝へと続くように、キリストとしてのイエスの再臨も福音の中心である。

 

上述の「みずから関与し〔死な〕なければならない」とは、イエスの十字架の死と復活を意味し、それは人間の「死」を如何に克服するかという「問い」に対する「答え」(啓示)なのである。

 

(1)「イエス・キリストの名称」

 

イエス・キリストとは固有名詞ではない。

 

「メシア――ギリシア語の『キリスト』――とは、イスラエルと世界における神の支配を確立すべく神より塗油(とゆ)された『受膏者(じゅこうしゃ)』である。したがって、イエス・キリストなる名称は『キリストと称されるイエス』、『キリストであるイエス』、『キリストとしてのイエス』、『キリスト・イエス』として理解されなければならない」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、124頁)

 

なぜ、キリストとしてのイエスにこだわるのであろうか。

ちなみに、パネンベルクは、次のように述べている。

 

「イエスを通して啓示されてこそ、はじめて、神を知るのである。神について語る他のどんな語りかけも、せいぜい暫定的な意味を持ちうるにすぎない。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク著、3-4頁)

 

このように神学とキリスト論、すなわち、神についての教理とキリストとしてのイエスについての教理とは互いに結びついている。この結びつきを開陳することこそ、まさにキリスト論のみならず、神学自体の目標でもあるというのである。

 

キリスト教が、ナザレのイエスが指し示す現実的事実に固執(こしつ)するゆえんについて、ティリッヒは次のように述べている。

 

「もし神学がナザレのイエスなる名称が指示する事実を無視するならば、神学はキリスト教の基礎的主張――すなわち本質的神人性〔神人一体性〕が実存の中に現われ、実存的諸制約に征服されることなしにそれに従わせたとの主張――を無視することになる。実存的疎外が克服された人格的生活がなかったならば、新しき存在は単なる求めであり期待であるにとどまり、時間空間的現実ではなくなる。実存が一点において――実存全体を代表する一個の人格的生活において――克服される場合にのみ、実存は原理的に克服される」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、125頁)

 

「実存的疎外が克服された人格的生活」とは、福音書に記述されているイエスの生涯それ自体のことである。イエスは架空の人物ではなく、歴史に実在した人物である。

 

ティリッヒは、キリストとしてのイエスに対する弟子たちの信仰もまた強調する。

この信仰受容がないならば、「もしイエスがかれの弟子たちの上に、また弟子たちを通して次の世代の上に、かれ自身をキリストとして刻印しなかったならば、ナザレのイエスと呼ばれた人間は恐らく歴史的宗教的重要人物として記憶にとどめられただけのことになるであろう」(同、126頁)と指摘する。

 

信仰の基礎には、イエスはキリストであると宣教した使徒の証言や、地上でのイエスがご自身の権威を主張したこと、さらに、イエスの復活を目撃した証人などの見解がある。

 

また、「キリスト論」は、イエス自身から着手すべきなのか、それとも教会のケリュグマ(宣教)から着手しなければならないのか、という問題がある。

 

パネンベルクは、「キリスト者の現在的な経験を神学の出発点として用いることは、……シュライエルマッハーと19世紀のエルランゲンのルター派神学にさかのぼることができる。シュライエルマッハーは彼の信仰論において、現在的なキリスト者の体験による逆推論の方法でキリスト論を構成した」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク、9頁)と述べている。

 

そして、結論として、パネンベルクは次のように述べている。

 

「新約聖書は、イエスがその高挙(こうきょ)によって、地上から、また彼の弟子たちから、取り去られたと証言している。私たちが、挙げられた主としてイエスのいま生きていることを知るのは、現在の経験からではなく、ただその当時に起こった出来事に基づいているのである。イエスの復活と高挙を証言する報告の確かさを信頼することによってのみ、私たちは、挙げられ、そして今なお生きていたもうお方に、祈りにおいて向かうことができるし、しかも現在このお方と交わることができるのである」(同、12~13頁)

 

このように、パネンベルクは「キリスト論は、単に教会のキリスト告白の発展に関わるだけでなく、何よりも、地上におけるイエスの活動と運命にその基礎をもっていることを問題にするのである」(同、13頁)というのである。

 

(2)「史的イエスの研究」

 

ティリッヒは、歴史研究の科学的方法が聖書文書に応用され始めて以来、それ以前は背後に潜んでいた〝神学的諸問題〟が、教会史上未曽有(みぞう)の重大性を持つようになったという。

今日、歴史的研究全体を「歴史批判」とか「高等批評」(高層批評)とか、あるいは「形式批判」などと呼ばれている。

 

彼は「史的イエスの研究」の動機について次のように述べている。

 

「歴史的批判は信仰そのものを覆えすかの如くに思われた。………古い諸伝統による着色や被覆(ひふく)の背後にあるナザレのイエスなる人物の事実を発見しようとする熾烈(しれつ)な〔宗教的〕欲求が働いていた。いわゆる『史的イエス』の探求が始まったのはこのようにしてであった。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、129頁)

 

D・F・シュトラウス(1807-1874)の『イエスの生涯』や、アルベルト・シュヴァイツァーの『イエス伝研究史』、そして、ブルトマンの『新約聖書と神話論』などがそうである。ナザレのイエスなる人物の事実を発見しようとする熾烈な〔宗教的〕欲求なのである。

 

ティリッヒは、ブルトマンの大胆な新約聖書の非神話化は「神学の全分野に嵐を()き起こし、歴史的問題に関するバルト主義のまどろみに驚愕(きょうがく)覚醒(かくせい)を与えた」(同、130頁)と述べている。

 

歴史的研究に対し、特に聖書文書の歴史的研究を神学的偏見によるものとして攻撃する見解があるが、これに対してティリッヒは次のように反論する。

 

「かれらはかれら自身の解釈もまた偏見によるものであること、すなわちかれらのいわゆる信仰の真理によるものであることを否定しえないであろう。しかるにかれらは歴史的方法には客観的科学的基準があることを否定する。しかしそのような主張は、普遍的研究方法の使用によって発見されまたしばしば経験的に検証された膨大(ぼうだい)な史料を思い見るとき、とうてい維持されがたいものである」(同、131頁)と。

 

これは、歴史的研究に対するバルトらの批判を意識して書かれたものであろう。

 

(3)「歴史的研究と神学」

 

しかし、ティリッヒは「歴史的研究によってキリスト教信仰および神学を基礎づけようとする(くわだ)てが失敗である」(同、136頁)という。しかし、他方で歴史的研究を次のように偉大なできごととして評価している。これは、彼の文脈によく見られる対立的見解を統一しようとする〝否定〟と〝肯定〟の弁証法的思考である。

 

次の本文は肯定面である。

 

「聖書文書の歴史的研究なるものはキリスト教史上における、否、さらに宗教史・文化史上における一つの偉大な出来事である。それはプロテスタント主義の誇りとするに足る一要素である。神学者たちがみずからの教会の神聖な文書を歴史的研究による批判的分析にかけたことは、プロテスタント的勇気の一つの表われであった。人類史上、他のいかなる宗教も、このような大胆なことを実行し、このような危険性をみずからに引き受けたことはなかったと思われる。イスラム教にも、正統ユダヤ教にも、ローマ・カトリック教にも、そのようなことはなかった。この勇気には報賞(ほうしょう)が与えられた。というのは、ひとりプロテスタント主義のみがよく一般の歴史的意識の流れに参加し、みずからを精神生活の創造的発展への影響力なき狭隘(きょうあい)な孤立的宗教界のなかに閉じこめることをまぬがれたからである。プロテスタント主義(根本主義のグループは別として)は、歴史的研究の結果を、証拠に基づくのではなく、教理的偏見に基づいて拒否する無意識的不誠実性へと追いこまれなかった。………プロテスタントのグループは、徹底的な歴史的批判によってさまざまの危機状態に投げ込まれたにもかかわらず、なお生き続けた。イエスがキリストであるとのキリスト教的主張は、最も厳しい歴史的誠実性にも矛盾しないことが、ますます明白となった。」(同、136-137頁)

 

上述の「狭隘な孤立的宗教界のなかに閉じこめる」とは、他宗教に対する排他的狭隘性を批判しているのである。また「教理的偏見に基づいて拒否する」とは、統一原理と文鮮明師に対して教理的偏見(根本主義などの見解)で拒否しているキリスト教の現状に一致する。

 

ところで、ティリッヒは「歴史的研究によってキリスト教信仰および神学を基礎づけようとする企が失敗である」というが、下記のごとく今日「歴史への復帰」という現象が顕著になって来る。パネンペルクは、「信仰は史的イエス自身に根拠」を持たねばならないことを強調する。

 

「バルトをはじめブルトマンやティリッヒなど、一九六〇年代頃までをその活躍の時期としていた二十世紀の神学者たちは、近代自由主義神学における不毛な『史的イエス』の探求や人間主義的なキリスト解釈に反対して、おしなべて歴史学的地平からの後退を宣言し、『原歴史』や『実存の歴史性』や『キリストの象徴(シンボル)』などに新たな活路を求めたが、これに対して一九五〇年代半ば頃から、『歴史への復帰』という現象が顕著になってくる。一九五三年、ゲーゼマンは『史的イエスの新しき探究』の必要性を叫び始め、その三年後にはボルンカムが『ナザレのイエス』Jesus von Nazareth(1956)を上梓する。新約学者たちのこういう動きに対応するかのように、やがてヴォルフハルト・パネンベルク(Wolfhart Pannenberg,1928- )が、『パネンベルク・グループ』と称される仲間たちと共同で、『歴史としての啓示』Offenbarung als Geschichte(1961)を著わす。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、日本キリスト教団出版局、524頁)

 

そして、パネンベルクはその3年後には、さらに『キリスト論要綱』(1964)を出版するのである。

 

(4)「キリスト論的教理の評価」

 

キリスト論的教理は如何に形成されていったかに関して、ティリッヒは新しき存在の追求とともに始まったという。

イエスは、人の子、神の子、キリスト、ロゴスなどと言われている。

ティリッヒは、初代教会の「キリスト論」について、次のように述べている。

 

「定形化されたキリスト論は、新約聖書の記者たちが『キリスト』と呼んだイエスにキリスト論的諸象徴を適用した仕方によって基礎を置かれた。」(ティリッヒ著『組織神学』2巻、177頁)

「初期教会がギリシア哲学から得た概念的用語によってキリスト論的象徴の解釈を始めた一つの理由であった。そのための最適の象徴が『ロゴス』の象徴であったのであり、そしてこれはその本性上、宗教的・哲学的に根を張った概念象徴である。その結果、初期教会のキリスト論はロゴス・キリスト論となった。」(同、177-178頁)

 

このロゴス・キリスト論は、キリストが実体(肉体)として顕現したことを強調するためである。それは「ナザレのイエス」に対して仮現説(仮の現れにすぎない)を主張するグノーシス(ドケティズム)に対抗するためであった。

ドケティズムとは、2世紀以前の初期グノーシス派と神秘宗教からでたもので、受肉と十字架は単なる見かけ、つまり〝仮象〟であるというのである。

 

初代教会はこの「キリスト論」の教義問題で論争した。

ティリッヒは、これらについて次のごとく述べている。

 

「初期教会の教理的研究の中心は、キリスト論的教理の創造にあった。他のすべての教理的発言――特に神と人間、聖霊と三位一体についての発言――は、キリスト論的教理の前提ともなり、またその結果である。イエスがキリストであるとの洗礼告白文が、キリスト論的教理が注釈する本文である。キリスト教教理に対する根本的攻撃は、直接的・間接的にキリスト論的教理に対してである。その攻撃のあるものは、この教理の実質すなわち洗礼告白文についてであり、また他のものはギリシア的概念の使用のようなその形式についてである。」(同、178頁)

 

ティリッヒは、論戦の結果は「キリスト論的教理は教会を救ったが、極めて不適切な概念手段によってであった」(同、179頁)と述べている。

 

その論争について、次のように評価している。

 

「一つには、キリストとしてのイエスにおける新しき存在の使信の表現にはいかなる人間的概念も不適切であるからであり、また一つには、ギリシア的概念の特殊的不適切性のためにである。すなわちギリシア的概念は普遍的意義を有するが、しかしそれはアポロやディオニソスの神像(しんぞう)に規定された具体的宗教〔的状況〕から由来したものである。」(同、179頁)

 

受肉は、アポロやディオニソスの神像と同じ偶像ではないかと思われた。福音書には、ナザレのイエスは人間として実存的疎外を克服した人格的生活の模範を示したことが記述されている。

 

「第六世紀中葉以後におけるカルケドン信条の半-単性論的変質である。この例における本来的使信の歪曲(わいきょく)化の原因は、ギリシア哲学の概念の使用にあったのではなく、当時のきわめて強力な呪術(じゅじゅつ)的迷信的敬虔(けいけん)の傾向が諸会議に与えた影響にあったのである。概念的形式の不適切性の例はカルケドン信条そのものである。この信条は、その意図としては、キリスト教使信の本来的意味に対して忠実であった。そして事実、この信条はイエスの人間的形象の完全な排除からキリスト教を救った。しかし、この課題を果たすためには、当時手もとにあった概念的手段をもってしてはただ強大な逆理的命題の積み重ねによるのほか仕方がなかった。それは、キリスト教使信に組織的解釈を与えること――これこそが哲学的諸概念導入の本来の理由であったのだが、――はできなかった。神学は、失敗が敬虔心の悪化に起因する場合に神学の必然的概念的手段を非難してはならないし、また概念的手段の不適切性を宗教的脆弱(ぜいじゃく)性に帰してもいけない。また神学は哲学的概念を排除してはならない。それは現実には、神学が自己自身を排斥することを意味する。神学は自ら使用する諸概念からまたそれらの諸概念に対して自由でなければならない。神学は、その概念的形式とその実質との混同から自由でなければならない。神学は、教会的伝統から与えられた概念的手段よりも、いっそう適切ないかなる手段を用いてでも、その実質を表現すべく自由でなければならない」(同、179-181頁。注:太字は筆者による)

 

上述の最後の「いっそう適切ないかなる手段を用いてでも、その実質を表現すべく自由でなければならない」という個所は、統一原理の神論とキリスト論を受容ならしめる洗礼ヨハネ的主張であるといえるのであろう。

その実質とは、キリスト論的実質であって、神の本体は何かである。バルトは〝三位一体の神〟という。統一原理は〝天の父母〟という。キリスト教は、神は〝父〟であって女性的要素はない。したがって、父母とはいわない。それで、父母という神概念に違和感を持つキリスト教徒は少なくないであろう。

「三位一体」と「天の父母」という神概念の同一性を存在論的に説かねばならない。この問題は後で論ずる。

 

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(17)

 (5)「実存的自己破壊と、悪についての説」

 

人間とその世界とは実存的疎外の状態にある。自己矛盾は自己破壊に向かう。それは、疎外の構造自体からくる。この構造をティリッヒは「破壊の構造」という。

 

ティリッヒは、「(悪は)破壊と疎外の両方……を含む。」「罪は悪の原因であり、また悪そのものである。」「(悪は)罪と疎外の状態から来る諸結果を意味する」(『組織神学』第2巻、76頁)という。

また、「自己喪失は、自己決定の中心の喪失である。」「諸衝動が中心に統一されている間は、それらが全体としての人格を構成する。それらが互いに対立的に働くようになると、それらは人格を分裂させる。」「(分裂が大きくなると)人間の中心ある自己は破壊されることがあり、そして自己喪失と共に人間は世界を喪失する。」「自己喪失は自己決定の中心の喪失、人格の統一の崩壊である」(同、77頁)というのである。

 

ティリッヒは、「破壊の構造」を上述のごとく論述する。統一原理も「それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない」(『原理講論』22頁)と述べ、この「人間の矛盾性」(破壊の構造)は〝先天的なもの〟ではなく、人間の堕落の結果による〝後天的なもの〟であると述べている。

 

「有限性と疎外性」の個所で、ティリッヒは次のように述べている。

 

「人間は存在の根拠から疎外して、かれの有限性に規定されている。かれはかれの自然的運命〔死の運命〕に引き渡されている。かれは無から出て無に帰する。かれは死の支配下にあり、可死性の不安にかられる。これが罪と死の関係の問題に対する最初の答えである」(同、83頁)と。

 

このように、ティリッヒは、「存在の根拠」(神)から疎外(堕落)して、かれの有限性(肉体の死)に規定される「不安」にかられるという。

キリスト教では、人間の肉体が死ぬのは〝堕落〟に起因するという。そして「永遠の命」とは、人間の肉体が永遠に生きることを意味する。

 

この見解は、人間には「霊のからだ」と「肉のからだ」があることを知らない見解であるといえよう(コリントⅠ、15・44)。堕落人間は、神から離反(疎外)して霊肉が分離している。それで、霊界が存在することがわからない状態にある。

したがって、死を恐れるのである。ティリッヒは、堕落人間の「肉のからだ」の有限性を根拠に、人間の不安に関する実存を語るのである。

 

原理的に解説すると、堕落による死とは〝肉体の死〟ではなく、神との愛の関係が切れることをいうのである。

肉体は死ぬが、その肉体の〝死〟は、罪とは関係がないというのである。死ねば「霊の体」となり、霊界で永生する。神の愛のあるところは〝天国〟であり、神の愛のないところは〝地獄〟である。

 

したがって、「永遠の命」とは肉体が永遠に生きることではなく、神との愛の関係を回復した「霊の体」(霊人体)で、霊界において永遠に生きる喜びをいうのである。

キリスト教の救いとは、この「永遠の命」を得ることである。反対に、神の愛から離反(疎外)した「霊の体」は、生きているが死んだ体なのである。それで、「生きた死体」として、サタンの支配の下で永遠に生きるのである。

それが、聖書でいう「永遠の死」という意味である。このような、死んだ「霊人の復活」(地獄からの解放)に関しては、統一原理の「復活論」で説かれている。メシヤによって再創造されて復活するというのである。

 

霊界のことを、もう少し原理的に説明すると、旧約時代の律法を行うことで義とされた人は霊界の(しもべ)圏で霊形体となり、救い主を待っている。新約時代のイエスと聖霊によって導かれ、キリストを信じて義とされた人は、霊界の養子圏で生命体となり、再臨主を待っているのである。

 

キリスト教以外の仏教や儒教やイスラム教などを信じて義とされた人たちは、律法と同じ等級の僕圏で救い主を待っているのである。したがって、今まで生霊体となり、天国に入った人は誰もいないのである。再臨主はこれら霊界のすべての人、すなわち、サタンの支配の下にいる僕圏や天国の待合所(養子圏)にいるキリスト者たち、そして無神論や殺人鬼などの悪人たちすべてをサタンの(もと)から解放・釈放して天国へ導くのである。

 

ただし、再臨主に対して造反した人は「第二の死」(永遠の死)の世界へ行くことになる。彼らは、そこ(罪と死と恐怖の世界)で「生きた死体」として永遠に苦しむことになる。それを後悔して悔い改め、救いを求めるならば、再臨主の教えによって最後には復活する。

 

ティリッヒの中心思想の一つである生の過程における疎外論は、マルクスが『経済学・哲学草稿』で論述している資本主義社会における「労働生産物からの疎外」、「労働の疎外」、「類からの疎外」、「人間からの人間の疎外」という「四つの疎外論」と対比するとよい。体制の革命か、人間革命(心の革命、心情革命)か、どちらであるかという問題である。

 

ティリッヒは、「社会構造の改変のみが人間の実存的窮境(きゅうきょう)を改変することができるという信念」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、92頁)をユートピア主義として批判している。

そして、「本質存在からの人間の疎外は実存の普遍的性格である。それは各時代にそれぞれ特殊の悪を限りなく生み出す」(同、93頁)と述べている。

 

また、マルクス主義が主張する社会体制が疎外(悪)の原因なのではなく、時代を超越した普遍的な「人間の罪」(人間の疎外構造、自己破壊の諸構造)が根本的な原因であると述べているのである。

 

以上述べた「悪の諸構造は人間を『絶望』に追いやる」(同、93頁)とティリッヒは述べ、「絶望の経験はまた、『呪詛(じゅそ)』の象徴によって表現される」(同、96頁)という。

そして、「人間は、呪詛の状態にあってもなお存在の根拠から切断されていない」(同、97頁)というのである。

 

なぜ切断されないのかに関しては、彼の『組織神学』で解かれていないが、全能で完全な神は〝失敗する神〟ではない、と統一原理の堕落論において解明されている。

 

(6)「新しき存在への問いと、『キリスト』の意味」

 

堕落によって神から離反(疎外)した実存的制約下にある人間の意志は、善を成し得ない。「ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の(もと)にある………義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものとなっている」(ローマ3・9-12)。

このようにティリッヒは「意志の奴隷性は普遍的事実である」(同、99頁)という。

 

ティリッヒは、宗教史は人間の自己救済の企てと、その失敗の歴史であるという。それは、人間が彼の疎外性を突破しえない無能力にあるからであるというのである。

そして、救いは「新しき存在」であるキリストを抜きにしてあり得ないということを悟るためであるというのである。

 

(7)「神、人間、および『キリスト』象徴」

 

ティリッヒの『組織神学』第2巻の中心は「キリスト論」である。

彼のいう「キリスト」象徴の意味をいかに理解すればよいのであろうか。神・人間・宇宙に対するキリストについての考察で、彼は次のように述べている。

 

「受肉が、神的諸存在が自然物や人間的存在に変質する神話的解釈をされることがある。この意味では、受肉はキリスト教の特徴であるどころか、はるかにそれから隔たったものである。むしろそれは、異教の神が有限性を克服していないかぎりにおける異教の特徴である。多神教においては、有限性が克服されないがゆえに、神的諸存在が神話的空想によって何の困難もなく自然的諸事物や人間的諸存在に変えられる。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、118頁)

「『ロゴスが肉となった』とのヨハネ的発言に従うべきであろう。『ロゴス』は、神と宇宙における、また自然と歴史における神の自己顕現の原理である。『肉』は物質的実体ではなく、歴史的実存を表わす。」(同)

「これは変質の神話ではなく、神が一人格の生活過程に顕現して人間の窮境(きゅうきょう)に救済的に関与するとの主張である。もし『受肉』の語がこのような限定された意味に解されるならば、それはキリスト教的逆理を表現することができる。しかし、それにしてもこれはあまり賢明な表現法ではない。というのは、この語の概念の迷信的含意を防ぐことは実際に不可能であるからである。」(同、118頁)というのである。

 

受肉思想は、いろいろと議論されてきた。グノーシスのキリスト仮現説(イエスの肉体は仮象であり、人間性を否定する)、神の子の神性が人間となる、肉に神性を見る、一時的に天使も見える姿に現われたがこれも受肉なのか、ロゴスが肉となったのはイエスのみである、受肉は被造物である。被造物は神ではない。被造物は被造物を救えないなど、今も論争の対象である。

 

ちなみに、統一原理はヨハネ福音書のロゴスを、〝理法〟あるいはロゴスによる神の無限なる〝構想理想〟(設計図)と解釈する。その設計図によって、天地万物を創造したというのである。

 

「世は彼によってできた」(ヨハネ1・10)とは、神は彼(アダム=イエス)を標本として世(被造物)を造ったということである。人間から見れば、万物は人間の形象(『原理講論』67ページ)である。また、人間は小宇宙であると説いている。

 

ティリッヒは、「『ロゴス』は、神と宇宙における、また自然と歴史における神の自己顕現の原理である」というのは、「キリスト教的逆理」であり、「あまり賢明な表現法ではない」というが、そうであろうか。

ロゴスを御言あるいは原理と捉え、その具体的内容(創造原理、堕落論、復帰原理)を知らないようである。

 

神は原理によって天地万物を創造された。しかし、神の()姿(すがた)である天地を主管する人間が堕落したからといって、天地万物を破壊し、その原理を捨てるなら、創造に失敗した神になる。神は失敗する神ではない。したがって、その原理によって堕落した人間を再創造されるのである。アダムが堕落して御言(原理)を失ったので、第二アダム(イエス)を送って御言(原理)を復帰し、原理によって堕落人間を救済されるというのである。

 

したがって、歴史は一人のメシヤ(イエス=真理)を送ることにあるのである。これが「歴史における神の自己顕現の原理」と言っている意味である。

「神(イエス)が一人格の生活過程に顕現して人間の窮境に救済的に関与する」という意味である。文鮮明師は「原理とは神様の心の中にある主流の憲法である」と語られている。

 

伝統的神学は、イエスは〝家庭の原理〟について何も語られていないというが、家庭の原理に関して、次のように述べておられるのである。

「……『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マタイ19・4-6)

 

このように、「父母()」(神)-「ふたり()」(夫婦)-「一体()」(合性体)という四位基台(存在の原理)について述べておられるのである。

同様に、統一原理は「夫婦として完成されるためには、神を中心として、男性と女性が三位一体となり、四位基台を造成しなければならない」(『原理講論』446頁)と説いている。

 

次に、「キリスト」象徴の意味についてである。

 

ティリッヒは、「われわれが聖書的また聖書に関連するメシア待望がメシア到来を宇宙的規模で描いていることを考える時、特にその重要性を増して来る。宇宙が新しい世界(アイオーン)に生まれかわるのである。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、119頁)という。

 

新しき存在は、「単に個々人を救済して人間の歴史的実存を改変するのみではなく、また宇宙を更新することにある。………〔人間〕の救済は他方〔自然〕の救済なしには考えられず、またその逆でもある。」(同、119頁)というのである。

このように、救済を個人的に捉えようと宇宙論的に捉えようと、キリストが宇宙の中心(本体)であり、キリストが主管する世界となるのである。

 

ところで、「宇宙の更新」に関して、ティリッヒの神学には具体的な説明がない。「事物の新しい状態・新しき存在」をもたらすとは、神話的に文字通りに捉えるのではなく、統一原理の「終末論」で説かれているように、サタンの支配する時代が終わり、神が支配する時代が始まるこというのである。

言い換えると、人間の堕落によって宇宙は破壊されたが、終末に、再臨主によって、人間も宇宙(自然)も再創造されて救済されるという意味である。

 

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(16)

(2)「有限性と不安」

 

さて、本論に戻るが、ティリッヒは有限性と不安について、次のように述べている。

 

「人間は単にすべての被造物と同様に有限的であるだけではなく、また自己の有限性を意識する。そしてこの意識が『不安』である」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、43頁)と。

 

そして、ティリッヒはアダムとエバが自己実現に向かって自由を行使して堕落したというのである。

 

次の本文は、有限的自由に根ざした〝不安〟に対する心理学的分析である。

 

「分析はいわば内側から、すなわちかれがかれの有限的自由を意識する不安の側からもなされうる。かれが自由を意識する瞬間に、危険状態の意識がかれを捕える。かれは、有限的自由に根ざし不安となって発現する二重の脅威(きょうい)を経験する。かれは自己と自己の可能性とを現実化しないことによって自己を喪失(そうしつ)する不安と、自己と自己の可能性とを現実化することによって自己を喪失する不安とを経験する。かれは存在の現実性を経験することなしに夢心地の無垢(むく)状態を保持するか、あるいは無垢状態を喪失し、その代りに知恵と力と罪過とを得るかの二者選一の前に立たされる。この状態の不安が誘惑の状態である。かれは自己実現化に向かって決断し、かくて夢心地の無垢状態が終焉(しゅうえん)する」(同、44-45頁)

 

これが、「自由と堕落」に関する実存主義的心理学的分析によるティリッヒの教説なのである。これ以外に、〝蛇〟は不可解であると述べるにとどまり、何も解明していない。

ところで、自由意志の問題であるが、人間は神の意志通りに動くロボットではない。ティリッヒが言うように、人間のみが自己を神から離間する力(自由)を持つ存在として創造されている。そのような自由な存在であってこそ、人間は神の似像(にすがた)であると言えるのである。

しかし、この自由意志によって堕落したのではない。自由意志は神の愛を求めるが、死を選択しない。自己と自己の可能性とを現実化するために死を避けるのである。

 

聖書に、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・48)とある。

しかし、自由がある限り、救われたとしても、また自由のために堕落するとするならば、人間は完全な者にはなり得ないということになる。

 

神は、そのような不完全な人間を造ったのであろうか。統一原理は、〝愛の力〟は〝原理の力〟より強いと捉え、それで、成長過程において「戒め」を守らなければ、愛の誘惑によって堕落する可能性があるとする。

すなわち、自由意志で堕落したのではなく、愛の力で堕落したと心理学的に分析している(「自由と堕落」より、『原理講論』125頁)。

それでは、なぜ愛を原理の力より強くしたのか。それは、愛を愛らしくするためであった。この神の愛で完成すれば、人間は決して堕落しないというのである。

 

(3)「原罪と人間観」について

 

ところで、ティリッヒは次のように原罪論を批評する。

 

「原罪説は人間に対する消極的否定的評価を意味するように考えられ、これが産業社会に発達した新しい生活感情・世界感情に真向から衝突(しょうとつ)した。人間に関する悲観論が、世界と社会を技術的・政治的・教育的に改造しようとする近代人の強い衝動を阻害(そがい)すると恐れられた。人間の道徳的力・知性的力の消極的評価から権威主義的・全体主義的諸結果が生じると懸念(けねん)されたし、今もそうである」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、48頁)と。

 

それで、ティリッヒは悲観的な原罪論との関連で、「神学は人間の本質的性質の積極的評価を強調しなければならない」(同)というのである。

シュヴァイツァーも「生命への畏敬(いけい)」を説き、「世界人生否定的悲観主義」ではなく、「倫理的世界人生肯定的な世界観」を説くべきことを強調していた。

バルトも、神が罪人を否定するのは「神の義」であるが、同時に否定された人間を義として肯定せんがためであるといい、「罪」と「神の義」の関係を弁証法的()()で理論的に説いている。

 

このように、原罪論は、一面において消極的否定的悲観的な人間観(罪人)となるので、救済論において積極的肯定的な人間観を説く必要性があるのである。

 

ところで、「人間の本質的性質の積極的評価」を主張するティリッヒは、神学は人間の偉大さと尊厳の自然主義に反対して「人間の創造された善性を守る点で古典的人本主義と提携(ていけい)しなければならない」(同、48頁)といい、「神学は人間の実存的自己疎外を示すことにより、また有益な人間的窮境(きゅうきょう)の実存主義的分析を使用することによって、原罪説を再解釈しなければならない」(同、48頁)というのである。

 

「古典的人本主義」との提携というが、統一原理は人本主義(人間中心主義)を批判克服した神本主義(神律)を主張している。言い換えると、神本主義によってヒューマニズムが完成すると説いているのである。

 

ところで、「原罪説の再解釈」を主張することは傾聴に値するが、しかし、彼は「『原罪』『遺伝的罪悪』などの語を除去」(同、48頁)することを主張する。これには反論せざるをえない。

原罪説と関連させ、メシヤによる接ぎ木によって「新生すること」(ティリッヒ的にいうと「新しい存在」に生まれかわること)を強調すべきなのであって、ティリッヒのように原罪論や遺伝的罪を排除することではない。

 

上述のように、原罪説が現代社会からなぜ攻撃され、また排除されるのかを知ることは、原罪ゆえに歪んでいる現在社会をいかに救済するかを考察する際の重要な問題意識となる。

 

ティリッヒは「創世記」の蛇の存在について、次のような疑念を述べている。

 

「創世記においては、人間のうちまた周囲における自然の力動性を代表するものは蛇である。しかし蛇だけでは力がない。人間を通してのみ本質から実存への移行が起こる。後世の説は反逆した天使の象徴を蛇の象徴に結合した。しかしこれとても人間の責任を解除するものとは考えられなかった。というのはルチファーの堕落は、たとえそれが人間の誘惑となるにしても、人間の堕落の原因にはならないからである。天使の堕落は実存の謎をとく助けにはならない。それはいっそう不可解の謎、すなわち神の栄光を永遠に見ている『祝福された霊的存在』が何故に神からの背反へと誘われたかという謎をもちこむ。」(同、49頁)

 

つまり、誘惑者である「蛇」の堕落と人間の堕落を関係させる見解は、謎が謎を生み、より不可解なものにしてしまうというのである。

 

このように、聖書の堕落神話に疑念を表明し、「人間の状況における道徳的要素と悲劇的要素の相互浸透性を記述することが必要である」(同、48頁)というにとどまり、なぜ堕落したのかという問いに対して「自由で堕落した」という伝統的神学の見解を述べ、「本質から実存へ移行した」という事実を記述するにとどまる。

言い換えると、「罪への欲望」「覚醒(かくせい)された自由」が堕落の動機であるというだけで、「原罪」とは何かに関しては、上述のごとく解かれていないのである。

 

(4)「人間疎外の諸標識と罪の概念」

 

原罪説に対する文字通りの解釈は、ティリッヒによると「多くの直解的主義的不条理を負わせているから、実際的にはもはや使用不可能である」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、58頁)という。

しかし、今まで誰も解きえないからと言って、原罪説を廃棄(はいき)することではない。この不可解な神話の謎を解く人こそ、再臨のメシヤであるといえるであろう。

 

ところで、ティリッヒは個人的疎外と集団的疎外について、次のように論述している。

 

「自由と運命とが一体化しているかれらの行動は、それが関与する全体の運命に寄与しているからである。かれらは、かれらの集団内で犯された罪悪をみずから犯さなかったから有罪ではないが、その罪悪が行われえた全体の運命に寄与したがゆえに有罪である。このような間接的な意味において、一国の専制政治の犠牲となった人たちでさえ、その専制政治に関して有罪である」(同、73頁)と。

 

これは、統一原理の「連帯罪」に関する記述と同じである。原罪と遺伝的罪については、先に論述した通りである。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(15)

『組織神学』第2巻――(実存とキリスト論)――

 

(一)「実存と、キリストへの問い」

 

ティリッヒは『組織神学』第2巻の緒論で、次のように述べている。

 

「神を存在自体と定義することから神論が始められると、哲学的な存在概念が組織神学のなかに導入される。このことはキリスト教神学の初期においてなされたし、キリスト教思想史全体においてもなされて来た。この書においては、存在概念は三つの個所で現われる。すなわち、神が存在としての存在、存在の根拠、また存在の力、と呼ばれる神論において、また、人間の本質的存在と実存的存在との区別が貫かれる人間論において、最後に、キリストが神の霊の働きによって実現された新しき存在の顕現と呼ばれるキリスト論においてである」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、新教出版社、12頁)

 

このように、ティリッヒの哲学的な存在概念は、神論、人間論、キリスト論の三つの個所で現われるのである。この三つの個所がティリッヒの『組織神学』体系の中心なのである。

 

ティリッヒは、神論について次のように述べている。

 

「この存在の力としての存在概念は、いかなる神学もこれを排除することができない。存在と神とを引き離すことはできない。神があるとか、神は存在するとか言われる瞬間、神と存在の関係がどう理解されるかが問われている。この問いに対する唯一の答えは、神は存在の力、ないし非存在を克服する力、としての意味において存在自体である、ということである」(同、13頁)

 

このように、神を存在の力と捉え、統一原理と同様に神概念を存在論的に論述している。

 

統一原理の神論も、「万有原力」、「授受作用」、「三対象目的」、そして「四位基台」など、哲学的な存在概念で論述されている。

ティリッヒの「存在の力」とは、統一原理の「万有原力」のことである。万有原力とは、神が永存し、すべての存在が存在するための根本的な力のことである。ティリッヒによると、この存在論的な神論はいかなる神学も排除できないというのである。

 

以上のように、ティリッヒの神論における存在概念は、統一原理の神概念を受容可能にする天的使命を持った洗礼ヨハネ的な神学であるといえるであろう。

 

『組織神学』第3巻の訳者である土居真俊氏は、「訳者後記」で次のように述べている。

 

「彼(ティリッヒ)の神学は哲学、文化、心理学、社会科学、自然科学のあらゆる領域を包括しており、極めて多面的である。

彼は聖書からの引照を余り用いないので非聖書的であるような印象を与えるが、そうではない。内実的には極めて聖書的である。彼は、『キリストとしてのイエスに現われた新しき存在』を彼の神学の中心に据えるという意味において、私は彼をバルト、ブルンナー、ニーバー兄弟と共にネオ・オーソドキシーに加えることを躊躇(ちゅうちょ)しない」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、新教出版社、536-567頁)

 

(A)「実存と実存主義」

 

ティリッヒは、神と人間の堕落した状態を、次のように実存哲学を用いて語る。

 

「神においては、本質的存在と実存的存在との区別はない。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、28頁)

「神は本質と実存との対立に従属しない。神は諸存在に並ぶ一存在ではない」(同)

「神のみが『完全』であり、『完全』とは正確には、本質的存在と実存的存在との間隙(かんげき)を越えた存在を意味する語である。人間とその世界は完全性を持っていない。人間と世界の実存は、『堕落』におけるように、本質の外に立つ。」(同)

 

ティリッヒは、実存主義に関して次のごとく評価している。

 

「実存主義は、『(ふる)い世』すなわち疎外(そがい)状況の人間と世界の窮境(きゅうきょう)を分析した。その点で実存主義はキリスト教の味方である。」(同、33頁)

「実存主義は、人間実存の古典的キリスト教的解釈の再発見を助けた。」(同)

 

ティリッヒは、メシヤの使命に関しても次のように実存哲学を用いて語る。

 

「キリスト教は、イエスがキリストであることを主張する。『キリスト』なる語は、著しい対照によって人間の実存的状況を指し示す。というのは、キリスト、すなわちメシアは、『新しい(アイオーン)』・宇宙の更新・新しい現実、をもたらす人であるからである。新しい現実は、(ふる)い現実を前提とする。旧い現実とは、預言者たち・黙示文学者たちの記述によれば、神からの人間と世界の離反〔疎外〕の状態である。この離反の世界は、『魔的諸力』として象徴される悪の諸構造に支配されている。悪の諸構造は個人の魂を、民族を、また自然界をさえ支配している。それはあらゆる形態の不安を生じさせる。これを克服して、魔的諸力すなわち破壊の諸構造が撤廃(てっぱい)される新しい現実をもたらすことが、メシアの仕事である」(同)

 

このように、ティリッヒは「神からの人間と世界の離反〔疎外〕の状態」(内部に矛盾性を持つ「破壊の諸構造」)をメシヤが撤廃して「新しい現実」をもたらす、と実存哲学を用いて語るのである。

 

(B)「本質から実存への移行と『堕落』の象徴」

 

ティリッヒは堕落の神話について、文字通りの解釈の弊害(へいがい)を次のように実存主義哲学によって批判する。

 

「『堕落』の象徴はキリスト教の伝統の一つの重要な部分である。それは普通はアダムの堕落に関する聖書物語と関連づけられているが、しかしそれの意味はアダムの堕落の神話以上の普遍的人間学的意義を有する。聖書の直解主義は、キリスト教的堕落神話の強調と創世記物語の直解主義的解釈とを同一視し、そのためキリスト教に著しい害を与えた。神学は今日直解主義を真剣にうけとる必要はないが、しかしそれがいかにキリスト教会の弁証論的課題を妨害したかをわれわれは知らなければならない。神学は『堕落』を『昔々あるときに』起こった出来事としてではなく普遍的人間状況の象徴として、明瞭かつ明白に説明しなければならない」(同、36頁)

 

ちなみに、統一原理は、エデンの園の〝蛇〟や〝善悪を知る木〟を文字どおりに解釈しない。それらを、何かの比喩であり、象徴であるとする。

ところが、直解主義者は非直解主義的解釈に対して、狂信的に反対する。しかし、ティリッヒは「文字通りの解釈」はキリスト教に著しい害を与えたというのである。

 

「『直解主義』(Literalism)の語は翻訳できない。それは象徴を文字通りにとることによって、それを迷信的不条理に変えてしまう神学的態度を意味する」(同、36頁)

 

ブルトマンは、聖書の神話を「非神話化」すべきであると言って問題となったが、ティリッヒは「非神話化」という言葉を避けて「非直解化」という言葉を用いる。

 

上述のように、ティリッヒは、堕落神話の「直解主義」(文字通りの解釈)の弊害(へいがい)を排除し、堕落神話は「『昔々あるとき』起こった出来事」としてではなく、「普遍的人間状況の象徴」であると捉え、人間の堕落を「本質より実存への移行」であると実存主義的に論述するのである。

ただし、ティリッヒは、「普遍的人間状況の象徴」というだけで、神が「取って食べてはならない」(創世記2・17)と言われた「善悪を知る木の実」とは何か、また、言葉を話す「蛇」とは何か、に関しては解明していない。

 

(1)「自由と堕落」について

 

ところで、なぜ堕落したのかという問題に関して、ティリッヒは「堕落の可能性は、統一としての人間的自由のあらゆる性質から来る。………神の似像(にすがた)である人間のみが自己を神から離間(りかん)する力を持つ。」(同、41頁)と述べ、この自由のために堕落したというのである。

 

しかし、この見解には問題がある。「神が堕落するような人間をつくったのか」、「罪の気質がどのようにして『夢心地の無垢(むく)』なアダムの性質の中に入りこんだのか」、さらに、「神が悪を創造したのか」という神義論の問題にまで至るのである。

しかし、ティリッヒは、何も解明していない。彼はメシヤでないので、仕方がないのではあるが…。

 

a 「ルタ-の疑念」と「ザビエルへの問い」

 

マルティン・ルター(1483-1546)は、「どうして神は、アダムが堕落するのを許したもうたのか。また、神は彼を堕落せぬように保つか、あるいは私たちをほかの(すえ)からか、または清められた第一の裔から造ることができたもうたであろうのに、どうして私たちすべてを同一の罪にけがされたものとして造りたもうたのであるか」(『世界の名著18ルタ-』松田智雄編、中央公論社、223頁)と述べている。

そして、ルターはその問いに対して「このような神秘を探ることは、私たちのなすべきことではない。むしろ、この神秘を畏敬すべきなのである」(同)という。

 

フランシスコ・ザビエル(1506-1552)に対して、鹿児島の住人が次のような疑問を提起したという話がある。

 

「確かに悪魔が存在し、それが悪の原理であり人類の敵であることはわかるが、それなら創造主を認めることができなくなる。何故なら、万物を造ったといふ善なる創造主が悪を造り出したといふのは矛盾だからである………もし創造主が人間を造ったと言ふなら、自分が造った人間が悪魔に誘惑された時、何故人間を保護せず誘惑されるのを黙認したのか」(小堀桂一郎著『国民精神の復権』、PHP研究所、65頁)と。

 

これらの論難(ろんなん)は、誰も解明していない。しかし、文鮮明師が解明した「堕落論」を知っている人なら、難なく答えることができる。

 

小堀桂一郎氏は、先の問いの最後を次のような言葉で()めくくっている。

 

「これから日本に派遣される宣教師は特に哲学、論理学を修めてこなくてはならない、日本人は非常に手ごはい相手である、トマス・アキナス、ドン・スコトスほどの学者でも日本人の質問にはよく答へられまい、といふのがサヴィエルの正直な感想だったのです」(同、67頁)

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(14)

「補足理論」

 

(4)「垂直的関係」と「平面的関係」

 

無限なる存在と有限なる存在の「アナロギア」(類比)は「在らしめる存在」と「在らしめられる存在」との間に成り立つ「存在の関係」であり、最も根源的な意味での存在の〝因果の関係〟である。

ただし、神は諸々の存在者と同一平面において諸々の存在者の原因になるのではない。それは、垂直的に個々の存在者の存在原因としてかかわるのである。

 

科学的世界観を持つ現代人に、「存在のアナロギア」を説明できるのは「統一原理」(『原理講論』第二節、「万有原力と授受作用および四位基台」)以外にないであろう。

 

統一原理は、縦的関係(垂直的関係)と横的関係(平面的関係)を、万有原力と授受作用の原理として解明している。

カントの「無限因果の系列理論」を論破したという統一原理は、神と被造物との関係を如何に捉えているのかという問題である。具体的に言えば、生命、作用、存在の原理とは何かという問題である。

すべての存在者は「神のうちに生き、動き、存在している」(使徒行伝17・28)のである。「人間の在り方」(四位基台)は「万物の在り方」(四位基台)なのである。

 

カントの論難(ろんなん)とは、「自存性」を前提とする因果律からの解放〔自由〕は第一原因と現象界との連続性の切断である。もし、連続しているなら、その自由の介入によって〝自然法則〟は混乱するというのである。

上述の統一原理は、縦的な万有原力の介入と横的な授受作用の原理によって、自然法則は混乱しないと説いている。カントの「無限因果の系列理論」は神と被造物との平面的関係のみを見て、より根源的な垂直的関係を見ていないのである。神は諸々の存在者と同一平面において、諸々の存在者の原因になるのではないというのである。

 

カントに影響されている知識人は、現代においても非常に多い。バルトもそうである。彼らはカントが次のごとく言うことに追随(ついずい)する。

 

「自然学が、原因の系列を用いてかかる第一の始まりをどのように説明しようとしたところで、すべて失敗に終るのである」(カント著『判断力批判』〔下〕、篠田英雄訳、岩波文庫、122頁)と。

 

そこで、反対派は、統一原理に対し次のように問うのである。「第一原因の原因は何か」と。

神論における多くの混乱と多くの弁証論的弱さの除去は、ティリッヒがいうように、神を存在論的に捉えることであり、問題とされている〝因果の系列〟の問いに対する答えの鍵は、「神は無形実在である」(真の愛を中心とした二性性相の中和的・統一体)と捉えるところにある。

 

ティリッヒは、存在者と神との関係を「有限なるもの」に対する「無限なるもの」と捉えたが、「有形なるもの」に対する「無形なるもの」という概念を想起できなかった。それで、カントのいう無限の因果の系列という「無限」を批判し得なかったのである。

 

カントの哲学は、その時代的社会的背景の反映である〝機械的唯物論〟の世界観に影響され、制約されている。また、彼にはプロテスタントの福音主義の影響が強く、彼の批判哲学はその信仰を基盤とした〝福音主義〟の神学の哲学化であるといえよう。

理論理性による神の存在論的な証明はすべて失敗する、神認識は信仰(道徳的実践の要請)による、という彼の哲学体系は、福音主義と一致する。

 

しかし、時代的に制約されているとはいえ、彼の三つの『批判書』(『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』)の影響は、現代にまで及んでいる。「すべての哲学は彼に流れ、彼から出発する」といわれるが、そのことをわれわれは改めて認めざるを得ないのである。

 

カントの先験(せんけん)的認識論や善意志、あるいは道徳的法則は「人間の意識の主体性、能動性」の論証に不可欠であり、レーニンが彼の著『唯物論と経験批判論』でいう「精神は脳髄の機能である」と精神を物質に従属させる唯物論的見解(精神は物質の所産)に対する批判において、カント哲学は不可欠である。

 

そのことを、カントはすでに次のごとく言っていたのである。

 

思惟(しい)する存在者の行為と内感の現象とは、唯物論的には何ひとつ説明され得ない」(カント著『判断力批判』〔下〕、187頁)と。この偉大なる哲学者に敬意を表する。

 

(5)「日本共産党の批判」

 

日本共産党は、「カントも批判する『神』の『宇宙論的証明』」と題して、次のように統一原理を批判する。

 

「神の存在の『宇宙論的証明』は、ヨーロッパの古代や中世の神学や哲学で、ごく普通にもちいられてきた議論のすすめ方である。この考え方は、自然界におけるすべてのものごとが因果関係によって制約されている事実にもとづいて、この原因―結果の系列をさかのぼって、もはやいかなるものの結果でもない端的(たんてき)な原因(第一原因あるいは自己原因)に到着し、これを世界の創造者つまり神とみなす議論である。

古代のアリストテレスをはじめ、中世のアウグスチヌス、アヴェロエス、トマス・アクィナスなどの考え方はこのような証明法にもとづいていた。近代においてもロックやライプニッツたちの機械論的自然観の場合、基本的にはこれと同じ考え方に立っていた。………運動・変化の原因を因果の無限連鎖(れんさ)として考え………この無限系列に区切りをつけようとすれば『第一原因』を考えざるを得なかったのである。」(『原理運動と勝共連合』、日本共産党中央委員会出版局、138頁)

 

日本共産党は、上述のごとく論述した後に、神の存在証明を批判するカントの「無限因果の連鎖」を取り上げ、宇宙論的証明は18世紀に「打ち破られてしまったもの」と言って、次のごとく統一原理を揶揄(やゆ)する。

 

「出来事には必ず原因があるはずだとする因果律は、結果から原因へ、そしてまたその原因へと無限にさかのぼることを要求する性格をもっている。この『証明』はそのような因果律の性格にもとづいて究極の原因たる『第一原因=神』を導きだすのだが、しかし同時にこの因果律の性格はその『第一原因』の背後にもまたその原因を追求せずにはいない。『第一原因』はもはやそれ自体、原因をもたない最初の原因であるはずであるが、因果律はそれにとどまらず、さらに『第一原因』の原因をも要求せずにはいない。これはこの『宇宙論的証明』が自分自身の()りどころである因果律によって自己矛盾に陥っているのである。『第一原因』を求めていけばいくほど、それは無限のかなたへと遠のき、もはやそれは『第一原因』ではないものと化してしまう。こうして『第一原因』は消滅し、つまり『宇宙論的証明』はなんら証明とはなりえないのである。

観念論者カントによる実に見事な批判ではないか。勝共連合=統一協会のいう『第一原因=神』論は、このようにすでに十八世紀にカントたちによって打ち破られてしまったものであったのだ。」(同、139頁)

 

このように批判を展開した後に、結論として次のように()めくくる。

 

「なおこの神の存在の『宇宙論的証明』に対するカントをはじめとする批判に直面して、その後の宗教哲学は大きく転回せざるを得なかったという宗教思想史上の事実をもつけ加えておこう。まともな宗教思想家であるならば、その後、宗教を心のなかの問題として論ずることはあっても、宇宙の『第一原因』などから論ずるということはしなくなったのである。」(同、140頁)と。

 

以上のように、日本共産党は、カントの無限因果の連鎖を無批判的に用いているのである。

また、「宗教を心のなかの問題として論ずることはあっても、宇宙の『第一原因』などから論ずるということはしなくなった」というが、ティリッヒが、神を「存在自体」、「存在の力」であると存在論的に論じていることを知らないのであろうか。

 

神を心の中の問題として捉えて、〝神認識は信仰から〟という福音主義神学は、神を心の枠内に幽閉(ゆうへい)し、自然界をもっぱら無神論や唯物論の独壇場(どくだんじょう)にさせているのである。この見解は、知性の怠慢(たいまん)であるという他はない。

統一原理は、既存の新正統主義神学や新自由主義神学ではないのである。

 

(三)「カントの目的論批判に反論する」

 

カントは、目的論を次のように批判している。

 

「完全無欠な目的論があるにしても、それはけっきょく何を証明するのだろうか。かかる目的論は、このような知性的存在者が現実的に存在するというようなことでも証明するのだろうか。いや、そうでない、この目的論といえども、その証明するところは次のこと以上に出ないのである、即ち――我々の認識能力の性質にかんがみ、従ってまた経験と我々の理性とを結合したうえで、意図を持って作用するような最高の世界原因を思いみるのでなければ、この種の世界の可能を絶対に理解することはできない、ということだけである。それだから我々は、『知性的な根原的存在者が存在する』という命題を客観的に証明することはできない、ただ我々の判断力を使用して自然における目的を反省する場合に備えて、この命題を主観的にのみ証明し得るにすぎない。」(カント著『判断力批判』〔下〕岩波文庫、79-80頁)

 

しかし、今日では、動物と植物に目的意識があることが証明されている。植物が音楽に反応することまで分かっている。存在者の存在目的は、カントのいうような認識主体である人間の〝主観的〟な目的意識の投影ではない。

 

カントは、神(知性的な根源的存在者)を「客観的に証明することはできない」、「主観的にのみ証明し得るにすぎない」というが、統一原理は神を存在論的に捉え、客観的に論理的科学的に証明している。

「キリスト論」で、イエスは神の実体対象である(ヨハネ14・9-10)と述べている。したがって、神と「真の人」(イエス)との「存在の類比」から神認識が可能であり、神は人格神(天の父)であると捉えている。

 

また、カントは存在者の存在目的を、次のように否定する。

 

「我々が究極目的を物のなかへ持ち込むのであって、物の知覚から究極目的を取り出してくるのではない」(カント著『判断力批判』〔下〕、岩波文庫、271頁)

 

このように、カントによると、自然における客観的な存在者は「意図をもつもの」「目的をもつもの」と科学的に論証できない、神によって創造された存在者は創造目的があると演繹(えんえき)的に目的存在であると断定される、というのである。

 

「我々はもともと自然における目的を、意図をもつものとして観察するのではなくて、この〔目的の〕概念を判断力に対する手引として、考えのなかでつけ加えるにすぎないからである。要するに自然における目的は、対象によって我々に与えられたものではないのである。」(カント著『判断力批判』〔下〕、80頁)

 

このように、目的は〝主観的〟な判断力の手引きとして、考えの中でつけ加えられるに過ぎないというのである。

さらに、目的論を次のように批判している。

 

「自然における合目的性を説明するために自然科学の組織のなかへ神の概念を持ち込み、今度はまた神の存在を証明するためにこの合目性を使用するとなると、この(ふた)つの学〔自然科学と神学〕のいずれにおいてもその内的自存性が失われることになる。そればかりでなくかかるごまかしの循環(じゅんかん)論証は、両者のいずれをも不確実なものとする、両学は互いにその限界を混雑(こんざつ)させる結果になるからである。」(カント著『判断力批判』〔下〕、49頁)。

 

このように、カントは自然の中に神の概念を持ち込むと、自然科学の内的自存性が失われると断言する。これは、神やサタンなどの超自然の力によって干渉されるという〝前近代的〟な人間観や自然観から、啓蒙主義によって解放された〝近代的〟な人間観や自然観の反映である。

超越神は、自然と無関係であるとされる。この見解は、ティリッヒのいう実存的制約下にある理性が容易に陥るわなである。自然科学と神学は、相互補完関係にあると捉えなければならない。それで両学の内的自存性が失われはしない。逆に両学が発展するのである。カントのように、「両学は互いにその限界を混雑させる結果になる」と判断して、伝統的な教理的偏見に基づいて〝信仰の真理〟と〝科学的真理〟の相違を主張し、自然科学と神学の相関論を拒否して、神学が狭隘(きょうあい)な孤立的宗教界のなかに閉じこもることは、神のみ旨ではないと思われるのである。

 

ところで、カントは「自然の中に神の概念を持ち込むと、自然科学の内的自存性が失われる」というが、失われはしない。統一原理はティリッヒがいう「万物の中に在る存在せしめる力」を「授受作用の力」として説いている。

この授受作用の力によって、すべての存在者は、「神のうちに生き、動き、存在している」(使徒行伝17・28)というのである。

 

ちなみに、レオン・レーダーマンは次のように言っている。

 

「物理学者も天文学者も、単純にして首尾一貫した包括的モデルをめざして進んでいる。そのモデルがすべてを説明してくれるだろう――物質とエネルギーの構造も、途方もない超高温、超高密度の宇宙が生まれた初期から、われわれが今日見ているような、かなり冷えきってすきまだらけになった世界にいたるまでの、あらゆる状況における力のふるまいについても。」(『神がつくった究極の素粒子』レオン・レーダーマン、草思社、48頁)

「われわれはできるだけ理論に統一性をもちこもうとしています。大統一理論は、いまわれわれが夢中になっているものです。」(同、73頁)

 

このように、自然科学は、「物質とエネルギーの構造」とは何か、「あらゆる状況における力のふるまい」とは何か、という問いを提起し、その「答え」(統一理論)を求めているのである。

 

ところで、存在者に目的があることを、統一原理は次のように述べている。

 

「心と体は、各々性相と形状に該当するもので、体は心に似ているというだけではなく、心の命ずるがままに動じ静ずる。それによって、人間はその目的を指向しつつ(せい)を維持するのである。」(『原理講論』45頁)

 

「このように、いかなる被造物にも、その次元こそ互いに異なるが、いずれも無形の性相、すなわち、人間における心のように、無形の内的な性相があって、それが原因または主体となり、人間における体のようなその形状的部分を動かし、それによってその個性体を、ある目的を持つ被造物として存在せしめるようになるのである。それゆえ、動物にも、人間の心のようなものがあり、これがある目的を指向する主体的な原因となっているので、その肉体は、その個体の目的のために生を営むようになるのである。植物にもやはりこのような性相的な部分があって、それが、人間における心のような作用をするので、その個体は有機的な機能を維持するようになるのである。そればかりでなく、人間が互いに結合するようになるのはそれらの中に各々結合しようとする心があるからであるのと同様、陽イオンと陰イオンとが結合してある物質を形成するのも、この二つのイオンの中に、各々その分子形成の目的を指向するある性相的な部分があるからである。陽子を中心として電子が回転して原子を形成するのも、これまた、これらのものの中に、各々その原子形成の目的を指向する性相的な部分があるからである。」(『原理講論』45頁)

 

カントは、「自然における目的は、対象によって我々に与えられたものではない」と断定するが、上述のごとく統一原理によって論破(ろんぱ)されている。

 

文鮮明師は、創造目的(存在目的)に対して、次のように述べておられる。

 

「主体と対象があれば、必ず目的があり、方向性があります。」(八大教材・教本『天聖経』「宇宙の根本」1614頁)

「今日では、物理学が発達し、『すべての原子にも意識がある』という……この論理は、統一教会の二性性相の原理と同じです。」(同、1615頁)

 

人間や動物、植物、鉱物など全ての存在者は、主体と対象のペア・システムとして、「(つい)」として存在し、主体と対象があれば、必ず目的性と方向性があるのである。

―「補足理論」の項、以上―

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(13)

「補足理論」

 

(一)「存在自体について」

 

(1)「概念でもあり象徴でもある」について

 

藤倉恒雄氏は「概念でもあり象徴でもある」というティリッヒの見解に対して、次のごとく疑問を述べている。

 

「彼は組織神学第一巻(1951年)の第10章『神の現実性』の(b)項の『存在としての神と神認識』において、存在自体のみを非象徴的叙述とした立場を――即ち、神を主観―客観構造と同一化して『存在の構造』とし、この構造による以外に神を語り得ぬとしていた立場を(Ⅰ,238-9)、1年後の1952年には、存在自体をも象徴的と修正することとなる(Ⅱ,9,“The Theology of Paul Tillich”,p.334-5)。即ち、彼は人間が神を字義的、直接的に語りえない理由を、人間の実存的諸制約に帰し、人間の神叙述には象徴的なものと非象徴的なものとが一致する境界線ともいうべき存在概念が現われてくる結果、その境界線上で神を『無限なるもの』、無制約者と語ることは、合理的に語ることであるが、同時に脱自的に語ることでもあると説明を修正する(Ⅱ,10)。しかし、ここでも、彼は神と存在自体の関係を充分説明するには至っていない。」(『ティリッヒの「組織神学」研究』、藤倉恒雄著、新教出版社、106-107頁)

 

聖書に、人間は神の(かたち)と啓示しているが、統一原理はそのごとく「人間は神の形象的実体対象」、「万物は神の象徴的実体対象」と捉えている。

ティリッヒが、神叙述は〝象徴〟としてというとき、神をそのような象徴的にしか示し得ないことに不満が残る。具体的に、キリストによって神を概念的に「形象的」に叙述できるではないかというのである。

神の似姿として造られた人間は、罪によって歪められてはいるが、本来においては〝神の形象〟であって〝神の象徴〟ではないのである。

 

聖書には、次のように述べられている。

 

「わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる」(コリントⅠ、13・9-10)。

「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない」(コリントⅠ、13・12)。

 

全き(完全な)真理は、神認識において、一部分の真理のごとく「おぼろげ」ではない。「顔と顔とを合わせて見る」ごとく鮮明である。したがって、神叙述は〝象徴〟ではない。

神について知っている知識について、パウロは「わたしが完全に〔神によって〕知られているように、完全に知るであろう」(コリントⅠ、13・12)と言っている。

 

(二)カントの「第一原因と因果律について」

 

(1)「空疎な無限因果の系列理論」

 

カントは、因果律によって、神を論理的科学的に論証することはできないと次のごとく述べている。

 

「およそ原因性には、自然法則に従う原因性だけしかない、………何か或るものは原因の原因性、即ち原因がそこではたらいている状態であるところの原因性によって生起したのであるが、この原因性はまたそれ自身生起した或るものであり、この生起した或るものは更にまた自然法則に従ってそれよりも前の状態とその原因性とを前提する。するとこの状態はいま述べたのとまったく同様に、それよりも前の状態を前提とするという工合(ぐあい)に、どこまでも(さかのぼ)っていくわけである。」(カント著『純粋理性批判』(中)、篠田英雄訳、岩波文庫、126-127頁)

 

このように、〝原因の原因〟と順次に遡っていくと最上位の始まり、第一の始まりと言うものは決してありえないというのである。つまり、神の存在を証明するはずの因果律によって、第一原因の〝原因は何か〟と、どこまでも遡行していくことになり、その因果律による第一原因の論証が、その因果律によって否定され、それを放棄せざるを得ないというのである。

 

すなわち、自己矛盾に陥ると言うのである。また、無限の因果の系列に、神(第一原因)も巻き込まれ、神が他の存在に並ぶ一存在になってしまうと指摘する。

 

(2)「神の自存性の矛盾」について

 

この因果の連鎖の強制からの解放は、カントによると、自らが自らの端初(たんしょ)であるところの神の「自存性」の主張となるとし、しかし、そこにもまた矛盾が生じると次のごとく指摘する。

 

「自然法則とは異なる別の原因性が想定されねばならない。かかる原因性は、何か或るものを生起せしめるけれども、しかしこの生起の原因はもはやそれよりも前にある原因によって、必然的自然法則に従って規定されることがない、――換言すればかかる原因性は原因の絶対的自発性であり、自然法則に従って進行する現象の系列をみずから始めるところのものである。」(同、128頁)と。

 

つまり、第一の始まりは、それよりも前にある状態から決して生じてこないような状態、すなわち自存性を前提している。ところで、これは因果の連鎖からの自由であり解放であるが、この自由は因果律に反するものだ、とカントは言う。

なぜなら、因果律からの解放〔自由〕は、第一原因と現象界との連続性の切断である。もし、連続しているなら、その自由の介入(結合)によって自然法則は混乱するというのである。以上のことに関するカントのいうところを再度引用してみよう。

 

a 「切断に関して」

 

「自由という幻影は、なるほど究明を事とする悟性に、原因の系列の停止を約束する、自由は悟性を無条件的〔絶対的〕原因性、即ちみずから作用を開始する原因性に達せしめるからである。しかしかかる無条件的原因性そのものは盲目的であるから、規則の手引きの系――つまりそれを辿ってのみ完全に関連する経験が可能になるところの手引きの糸を切断してしまうからである。」(カント著『純粋理性批判』(中)、岩波文庫、128-129頁)と。

つまり、因果の系列の停止は、第一原因と現象界との因果の関連性の切断であり、因果律の放棄であるというのである。

 

b 「混乱に関して」

 

「自然は自由というかかる無法則的な能力と同列に考えられるものではない。両者を同列に置くと、自然法則は自由の影響によって絶えず変改されることになるし、また現象の過程は、自然だけに従っていさえすれば規則的、斉合(せいごう)的であるのに、これもまた自由の影響によって混乱に陥いり、ついに支離滅裂(しりめつれつ)になるからである。」(カント著『純粋理性批判』(中)、岩波文庫、132頁)と。

 

つまり、切断にしろ、連続性にしろ、いずれにしても論理に一貫性がなく、自己矛盾に陥り、混乱すると言うのである。だから、「第一の始まりを単なる自然から説明しようとはしなかった」(『純粋理性批判』(中)133頁)とカントは結論づけるのである。

 

つまり、因果律によって、究極的存在(第一原因)を論証できないということである。それは自然神学(宇宙論的論証、存在論的論証、目的論的証明)による神の証明が不可能であることを論証しているのである。

 

このように、カントによって重要な問題がすでに提起されていたのである。第一に、神の存在論的証明は可能であるか。第二に、自然(現象界、被造物)と神との関係は如何に、という問題である。神との接点があるのかないのか、もし、何らかの連続性があるなら、それは如何してという問いである。

ティリッヒは、存在自体を〝概念〟でもあり、〝象徴〟でもあるとして、存在との接点(境界線)において合理的に語ることは脱自的に語ることであるといって、連続性を維持しようとしたのである。

 

「神と被造物との関係」は、すでに本文で「万有原力と授受作用」で論述している。カントのいう論理的矛盾は、統一原理によって解消されている。

 

(三)「カントの主張に対する反論」

 

(1)「客観的存在と一致しない」(空疎な思惟)

 

ところで、因果律の系列について、具体的に客観的存在に沿って、無形なる第一原因の構造と、神と被造物との関係、神の自存性と神と被造物との因果の連続性を如何に正しく理論的に捉えるか、科学的に検証して見よう。

このような試みは経験不可能な〝空虚な思惟〟とカントは言うが、はたしてどちらが〝空虚な思惟〟なのか。カントの主張に妥当性があるのか、という問題である。

 

物質を形成する分子は原子から、原子は素粒子から、この素粒子の原因はエネルギー(力)から、ということが今日においては科学によって明らかにされている。認識の対象はここで消滅して、形のない無形なるものとなる。

エネルギーは無形である(形がない)。したがって、これ以上、原因の原因として遡れない。無形なるものの原因は無形であるからである。

 

究極的存在とは、ティリッヒがいう「存在の力」であり、統一原理のいう「原力」(万有原力)のことである。これを第一原因というのである。

この無形なる原力によって、エネルギーが現れ、この無形なるエネルギーから有形なる物質が現れたというのが、現代物理学の世界観である。ここに因果律の切断はない。第一原因と連続性があるのである。

 

カントの議論は、一見すると論駁(ろんばく)し難い科学的な理論に見えるが、具体的に客観的存在を追及していくと、「認識対象」を離れて、観念的に無限の因果の系列があるかのように主張していることが分かる。

有形なる原因の遡行は、無限でない。分子、原子、素粒子、エネルギーと、たった4段階で、もう無形なるものに至り、次の段階で第一原因に行きつくのである。

 

カントによると、「原因と実体」(生起した或るもの)は有限性の範疇(はんちゅう)であり、有形な「生起した或るもの」が原因の系列の前提であった。だが、この前提がエネルギー(力)に至って無形なる存在となるのである。

したがって、有形なる前提が消滅する。それゆえ、その原因の原因は何かと、生起した有形なる或るものをその原因の原因として措定(そてい)し、さらに遡行(そこう)していくことができなくなるというのである。

 

無形なるものが有形なるものの原因であって、有形なるものが無形なるものの原因になり得ない。それはつまり無形なるエネルギー(力)の原因として有形なる「生起した或るもの」を前提とすることができないということである。

だから、カントの無限の因果の系列は、客観的存在を離れた空虚な思惟であると言うのである。

 

無形なるエネルギーの原因は第一原因と呼ばれるが、それは無形なる存在であるが、実在するということである。したがって、無形なる世界に有形なる世界の因果律を適用することはできない。

因果律が適用できるのは、無形なる第一原因に至るまでのことである。その無形なるものが絶対的端初(たんしょ)(第一原因)となるのである。

 

神はエネルギーの本体である。宇宙も、ある力の源泉から生まれたのである。したがって、天地を動かすとか、創造するという力の作用体、根本の作用体がなければならない。このような立場にいるその方を、私たちは神様というのである。

力は作用過程(授受作用)から現れる。したがって、力が存在する以前に、力の作用体がなければならない。その作用体が作用するためには、主体と対象がければならない。なぜなら、単独では作用することができないからである。ゆえに、力の源泉である第一原因は「二性性相」である。

 

以上のごとく、カントの無限なる因果の連鎖(れんさ)というのは、客観的存在(有形実体対象)として極小の物体が無限に存在するということを、暗々裏に前提とした推論であった。

しかし、第一原因は有形ではなく無形実体であり、無形なるものの原因は無形であって、生起したあるものなどではない。有形なる存在という前提がなくなる。したがって、第一原因の原因は何か、と無限に遡行していく因果の連鎖の系列は、〝空虚な思惟〟の産物であるということになる。

 

この点を見抜けず、ティリッヒは、カントと同様に「『論証』の無能性、神問題に答えることの不可能性を暴露(ばくろ)することである」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、266頁)と言って、カントに並ぶ。

そして、第一原因の原因と遡行していくところの観念的な空疎な理論を、次のように承認する。「このような存在者はそれ自体因果連鎖(れんさ)の一部であり、再び原因の問題を提起するであろう。」(同、265頁)と。

 

しかし、提起はできない。なぜなら、ビックバンによって現われた時間と空間の世界における因果の法則を、ビックバン以前の時間と空間を超越した世界に適応することはできないからである。

 

このように、第一原因の原因という問いそのものが〝妄想〟であることに気づかないのである。ここに、ティリッヒが存在論的に神を存在自体と捉えながら、それを〝象徴〟と修正する曖昧(あいまい)さが生じるのである。

 

(2)「第一原因は無形なる存在である」

 

時間空間の現象界の因果法則を、時間空間を超越した世界に適応することはできない。

第一原因は無形なる存在である。この無形なる存在に対して有形なる世界の因果の法則を適応して、第一原因の原因は何かと問うこと自体、経験の世界を越えた越権であり、妄想であり、空虚な思惟である。

このことは、カント自身が形而上学(けいじじょうがく)と言って批判していたことではなかったのか。因果律による遡行は、第一原因に至るまでのことである。それを超えて因果律で思惟することは〝妄想〟である。

 

「無形なるもの」から「有形なるもの」が生起したことは、ノーベル物理学賞を受賞したレーダーマンが次のごとく述べている。

 

「無が爆発したわけだ。この最初の爆発で、時間と空間が生まれた。そのエネルギーのなかから物質が生まれた」(『神がつくった究極の素粒子』(上)、レオン・レーダーマン著、高橋健次訳、草思社、14頁)

 

最初の爆発の結果、生まれた時間と空間の世界に適応する物質界の因果の法則を、爆発以前の時間も空間もない第一原因の世界に適応することは、非科学的である。

 

(3)「卵の比喩」

 

それでは、如何にして「無形なるもの」から「有形なるもの」(第一の始まり)が現れたのであろうか。

逆に、結果から原因を遡行して、如何に第一原因にまで至るのか。そこに因果の連続性は保たれ、切断はないのか。それらのことは理論的に証明され、認識されるのか。

自然界には、象徴的に真理を語るものが多く存在する。この場合、卑近(ひきん)な例として鶏卵(けいらん)を取り上げてみると、真理が一層明らかになるであろう。

 

鶏卵が如何にして形成されるのか、解剖すれば母体から卵が形成される過程が見られる。小さいものから大きいものまで卵に成りつつある一連の()のかたちをしたものが母体に現われる。

そして、ある大きさにおいて母体から球形の形をした卵として分離する。これは、極小の世界である素粒子が「無形なるエネルギー」(無形実在)から如何に「形あるもの」として形成されるかを象徴的に見せているのである。

 

母体は無形なる第一原因を象徴し、一連の卵は素粒子が形成される過程を象徴している。母体と卵の間に因果の連続性があり、そこに因果の切断はない。そのことが認識できる。

このことは、無形なる第一原因から最初に生起する無形なる原物質(エネルギー、力)、さらに、素粒子へと連なる関係の間に、因果の連続性があり、そこに因果の切断がないことを示している。

 

また、「無形なる第一原因」から最初の「原物質」(物質的要素)の間に、極小なる粒子が無限にどこまでも分割されてあるのではない。まだ発見されていない物質があるだけで、第一原因を根源として原物質(物質の究極的構成要素、目的エネルギー)が生起し、原物質から生じる一連のエネルギーの波動(曲線、弧)や素粒子(形のない「点」)が現れる。

そのことを、鶏卵の母体から、最初に生起し、母胎からまだ離れていない小さな卵(弧)は示している。

 

「無形なるもの」から「有形なるもの」の境界線は、最初に生起する原物質である(統一原理の存在様相からみて、最初の生起は力=目的エネルギーであって、それによって弧をえがく波動と粒子の場であろう)。

その形のない原物質から、さらに生起する対象として認識される素粒子も波動(曲線)であり、粒子(球形―分割できない最小のもの、「点」)として現れる。

 

最小の素粒子(クォークが6つと、レプトンが6つあると考えられている)によって、すなわちクォークとレプトンが結合し、宇宙のすべての物体ができている。陽子はクォーク3つでできている。その陽子1個にたいして、レプトンという素粒子に属する電子を1個加えれば、原子1個ができあがるのである。

この原子が水素である。クォークとレプトンは、統一原理による陰陽の二性性相に相当する。このクォークはどれも「点」のようなもので、体積がなく、形がない。目で見ることができないが、有るのである。――(『神がつくった究極の素粒子』(上)、レオン・レーダーマン著、草思社、86-91頁を参照)

 

最初の生起や有形なるものは理性で認識でき、ティリッヒの言うごとく脱自的になる必要性はない。第一原因を、彼は「存在自体」と概念的に捉えたが、第一原因を「無限なるもの」と捉えて「無形」(二性性相)という概念を想起できず、概念でもあり象徴でもあると修正したのである。

それで、彼の神叙述に明確性がなくなったと指摘されるのである。

 

以上が、カントの自然法則による無限の因果の連鎖(原因の系列)という論理に対する反論であり、カントの批判は有形なる客観的実在から離れた経験的対象を無視した観念的な〝空疎な理論〟であると反論する理由である。

第一原因と現象界との間に「連続性」があるのであって、「中断も混乱」もない。第一原因(自由)の介入が異種の法則の介入(結合)であって、自然法則を混乱させるという主張も、事実として認識できないカントの観念的な〝妄想〟である。

 

ただし、連続性があると言っても、現象界は神によって創造された被造物である。被造物は神ではない。神は、万有原力ですべての存在者と関係し、存在者を存在せしめているのである。