当サイトで議題とする神学者とその理由などについて紹介しています。まず始めにお読みください。



ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(2)

ブルトマンによると「福音書は拡大された祭儀聖伝である」と次のように述べている。

 

「宣教が告知するキリストとは史的イエスではなく、信仰と祭儀のキリストである。キリスト宣教の前面に立つのは、それゆえ、信仰において告白され、洗礼と聖餐において信仰者に働く、救済の事実としての、イエス・キリストの死と復活である。つまり、キリスト・ケリュグマとは祭儀聖伝であり、福音書は拡大された祭儀聖伝である」(『共観福音書伝承史Ⅱ』加山宏路訳、新教出版社、274~275頁)。

 

つまりブルトマンによると、「福音書記者は伝承を自由に駆使しながら、完全に信仰という一点からイエス像を構成している」(『聖書の伝承と様式』ブルトマン、クンズィン著、山形孝夫訳、未来社刊、79頁)というのである。

 

このように、共観福音書は史的な関心を持って書かれた伝記書ではないのである。そして宣教の対象であるキリストは、史的なイエスではなく、信仰と礼拝の対象としてのキリストであり、宣教と礼拝に役立てるための「初期キリスト教」(ヘレニズム的キリスト教)の神学の所産であるというのである。

 

以上のように、ブルトマンの「『共観福音伝承史』に使用せられた様式史的方法は、世界の学界に注目せられたが、この研究は、史的イエスの研究にも画期的な帰結を齎らし、明らかに非神話化と実存論的解釈の準備作業をなすもの」(ブルトマン著『キリストと神話』山岡喜久男・小黒薫訳、124頁)と言われている。

 

「福音書はキリスト祭儀とキリスト神話を前提しており、ヘレニズム・キリスト教が創造したものだからである」(『共観福音書伝承史Ⅱ』、加山宏路訳、新教出版社、277頁)。

 

ブルトマンの『共観福音書の研究』(1930年―共観福音書伝承史の縮刷版)より

「福音書記者たちが使用した伝承素材(Traditionsstoff)と彼らの編集上の加筆(redaktionelle Zusatze)との間に区別をつけるということである。このような課題は、主としてヴェルハウゼンによって認識され、K・L・シュミットによって組織的に究明された。……本来の伝承は小さな個々の独立した断片(言葉あるいは短い物語)から成っていること、またそれら個々の断片を大きな文脈へと連結する場所とか時間の指示は、すべて福音書記者の編集操作によるものであることが明瞭になった。彼らは、(こうした操作に必要な)類型的移換法を有し、個々の場面の背景とかイエスの全生涯の枠組みをつくりだすために、いわばかなり限定された演出資料(Regie‐Material)を自由に駆使する。すなわち、『家』、『山』、『海浜』とか、『舟の中』、『旅の途上』、『食事の客』、『シナゴグにおける礼拝』のイエスといった状況がそれである。群衆、敵対者、供の弟子たちの登場なども図式的である。こうした福音書記者たちの編集活動に関して、わたしは『共観伝承の歴史』(Die Geschichte der synoptischen Tradition, 1921, 1957)において総括的に論究したつもりである。」(『聖書の伝承と様式』、ブルトマン、クンズィン著、山形孝夫訳、未来社刊、23~24頁)。

カトリック教会でも1964年に、パウロ六世のもとで教皇庁聖書委員会が、「福音の歴史的真実性に関する指針」を発表し、編集史的方法と様式史的方法を福音書研究に適用することの必要性を公認した。

 

 

(二)ブルトマンの『イエス』(「イエス像は信仰の所産」)

 

ブルトマンは1936年に出版した『イエス』において、「私達はイエスの生涯と人となりに就いて殆ど何も知る事が出来ない」(R・ブルトマン著『イエス』、川端純四郎・八木誠一共訳、未来社刊、12頁)と断定し、福音書の記述から史的イエスを復元することはできず、福音書をとおして得られるのは「ヘレニズム的キリスト教」の中で成立した信仰の所産である「キリスト像」(教団の宣教した一つの像)であると主張し、人々に大きな衝撃を与えた。

 

ブルトマンは『共観福音書伝承史』の縮刷版といわれる『共観福音書の研究』(1930年)の中で、「イエス伝の全体的枠組が、編集上の操作とみなされること、従ってわれわれが詩や造形美術や、あるいは教会的慣習にもとづいて、イエスの生涯の一場面として信じてきた一連の代表的場面は、ことごとく福音書記者の創作として明らかにされる」(『聖書の伝承と様式』、ブルトマン、クンズィン著、山形孝夫訳、未来社刊、26頁)と断定している。

 

実際、ブルトマンが彼の著『イエス』の序論で、人間自身が歴史の一部であり、中立的観察者でありえないというように、福音書の記述がすべて客観的歴史的なものと言えるかどうか、疑問が持たれるのである。

ブルトマンは「ヨハネ福音書」(90年代後半)に関しては、「イエスの宣教の史料としては全然問題にならず……全く顧慮されなかった」(R・ブルトマン著『イエス』、未来社刊、16頁)と言い切る。

 

次の文章はブルトマンの共観福音書に対する批判的分析の結論である。

 

「共観福音書における種々の層の分解は先ず次の事実から出発する。すなわちイエスと最古の教団は、その場をパレスチナに持ちアラム語を語ったのに、これらの福音書はヘレニズム的キリスト教内部でギリシャ語で著されたということである。ゆえに共観福音書の中で、言語上または内容上の理由から、ヘレニズム的キリスト教の中で成立したとしか考えられないものは、イエスの宣教の史料にはならない。しかし批判的分析は、これら三つの福音書の本質的内容が、最古のパレスチナ教団のアラム語伝承からとられたことを示す。……この最古の層に属する言葉が、事実イエスによって語られたものだという保証は勿論ありはしない」(R・ブルトマン著『イエス』、未来社刊、16~17頁)と。

 

最古の層もイエスの言葉である保証がないなら、確かに憂鬱である。しかしブルトマンはヘレニズム的キリスト教の「信仰と神学の所産であるもの」から、一片の伝承に出会うという。そしてその断片の複合体の中に、真のイエスの思想を捉えるのである。そのことに関して次のごとく述べている。

 

「イエスの人となりに関心をもつ人にとっては、憂欝(ゆううつ)もしくは破壊的である。しかし私達の目的にとっては本質的な意味をもたない。なぜなら、伝承のあの最古の層の中にある思想の複合体が私達の叙述の対象だからである。それはさしあたり過去から私達に届いた一片の伝承として私たちに出会う。私達はこれに問いかけながら歴史との出会いを求めるのである。伝承はこの思想の所持者をイエスと名ざしている」(『イエス』17頁)。

 

このように、信仰によって神格化されたイエス像を一掃して、真のイエス・キリストを把握し、イエスの思想を叙述しようとするブルトマンの『イエス』は、福音書を実存論的に解釈したものであると言われている。

 

ブルトマンの「非神話化」( 現代から見た信仰と実存論的解釈学)(1)

ルドルフ・ブルトマン(Rudolf Bultmann, 1884-1976)はドイツのプロテスタントの神学者。文学様式による分類方法と原始キリスト教団の「生活の座」(ジッツ・イム・レーベン)から、新約聖書の資料を分析し、福音書を研究する方法(「様式史的方法」)を確立した創始者の一人。また新約聖書の非神話化を主張し、実存論的解釈を提唱する。

 

(一)ブルトマンの『共観福音書伝承史』(「様式史的方法」)

 

ルドルフ・ブルトマンは、歴史的・批評的神学から出発して『共観福音書伝承史』(1921年)を出版し、すでにヘルマン・グンケル(1862-1932)によって旧約聖書の文学的研究で用いられていた「様式史的方法」を福音書の研究に用い、新約学に画期的な業績を残した。

福音書における様式史的研究方法は、先にM・ディベリウスとK・シュミットが確立していたが、ブルトマンはこれらをさらに深化させて、独自の研究の成果を上げた。

 

様式史的方法とは、記述の重なり合うマルコ、マタイ、ルカの共観福音書を様式によって整理分類し、そのもととなる資料(Q資料)を推定する作業のことである【註①】。現代の福音書研究のほとんどすべては、この様式史的方法を発展させたものである【註②】。

 

その研究の結果、「イエスに関する伝承は種々の異なった『様式』を伴って言い伝えられており、それらの伝承様式の背後に、それらを生み出した伝承の『生活の座』(Sitz im Leben)として原始教団の意図的業が確認される」(『イエス・キリスト』荒井献著、講談社、54頁)と言うのである。

 

すなわち、「はじめに教団(宣教、ケリュグマ)ありき」ということであり、共観福音書(AD68~85年頃成立)は、客観的に歴史的事実を記述したものではなく、初期キリスト教団の信仰の所産であるというのである【註③】。

 

ブルトマン著『共観福音書伝承史』より

「様式史研究が単なる美学的考察でなく、また単に記述と分類の手続きに留まらない、とのDibeliusの主張に、わたしは全面的に同意する。すなわち個々の伝承片を美学的ないしその他の特徴に従って記述したり、分類したりすることが、様式史研究の課題ではないのである。むしろその課題は、それらの伝承片の成立と歴史を再編成することによって、成文化以前の伝承の歴史を解明することにある。このような課題の理解は、ある共同体の――それゆえ、また、原始キリスト教会の――生活の凝縮したものとしての文学が、その共同体のきわめて特定的な生活の表現および必要の中から生まれたということ、そしてそれらは一定の文体(Stil)、様式(Form)、および文学類型(Gattung)を生み出した、という認識に基づいている。特質を異にする様々の祭儀であれ、また労働、狩猟、あるいは戦争であれ、すべての文学類型は固有の〈生活の座〉(Sitz im Leben) (Gunkel)を持つのである。この“生活の座”は個々の歴史的事件ではなく、共同体の生活における典型的な情況ないしその行動様式なのであるが、<類型>ないし<様式>――それによって個々の伝承片は一つの類型へと分類される――も美学的概念ではなく社会学的概念なのである」(『共観福音書伝承史Ⅰ』加山宏路訳、新教出版社、11頁)

 

 

【註①】

「様式史的方法」

 

「問題は、なぜマルコが『福音』を『福音書』の中に、すなわち信仰告白をイエスの生涯全体の中に取り戻そうとしたのか、なぜマタイとルカがマルコのイエス・キリスト像に――Qその他の資料を導入しながら――改変の手を加えたのか、ということである。その結果、当然のことながら、彼らのイエス・キリスト像には多様性が出てくる。にもかかわらず、彼らが伝統をただ形式的に墨守(ぼくしゅ)せず、新しいイエス・キリストを像型したのは、彼らの時代の状況の中でイエス・キリストの意味を主体的・歴史的に問い直そうとしたからにほかならない」(『イエス・キリスト』荒井献著、講談社、492頁)

 

Q資料とは、「現在文章の形で残っているものではなく、マタイ福音書とルカ福音書に共通するイエスの言葉から、その存在が仮定的に推定されているものである」(同上、53頁)。

1945年に発見された『トマスによる福音書』には、「Q資料」と重なるイエスの言葉が多く含まれている。「語録資料」とは、「資料」を意味するドイツ語Quelle(クヴェレ)の頭文字をとって「Q資料」と呼ばれている。

 

「福音書の中でマルコ福音書が最古の時代に著わされ、マタイとルカは……マルコ福音書を資料とし、イエスの言葉についてはマルコ福音書とは別の『語録資料』(Q資料)を資料として、これにマタイとルカにそれぞれ固有な『特殊資料』を加えて、それぞれ福音書を著作した」(同上、53頁)

 

したがって、イエスに関する最古の資料は「マルコ福音書」と「語録資料」(Q資料)の二つである。これを二資料仮説という。

 

「後世のキリスト教思想に影響を与えたのは……ヨハネ福音書と、とりわけパウロあるいはパウロ系の手紙とに表出されたイエス・キリストである」(『イエス・キリスト』荒井献著、講談社、492頁)

 

なぜそう言われるかといえば、イエスの死と復活以後、救いが十字架の死による贖い(十字架贖罪)にあるという教団側の主張を、ヨハネとパウロがより反映しているからである。その点は、例えば、最古のマルコ福音書からマタイ、ルカ、ヨハネと時代が進むに従って、十字架上のイエスの口に新しい言葉を付加し、教団側の主張が正しいという根拠を、それによって得ようとしていることから窺えるからである。

 

マルコ福音書では十字架上のイエスの言葉として、ただ一つだけ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15・34)と記している。

だが、この言葉は神に見捨てられた絶望の叫びと受け取られ、十字架の予定説の否定として受け取られかねない。それで、ルカとヨハネは、漸次的に、もっとふさわしい言葉をイエスの最後の言葉として、その口に次のように付け加えたのである。

 

ルカは「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23・34)と、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(同23・46)をイエスの言葉として付加した。

 

また、ヨハネは「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」および「ごらんなさい。これはあなたの母です」(ヨハネ19・26)と、「わたしは、かわく」(同19・28)、そして「すべてが終った」(同19・30)と記し、十字架が予定であり、救いが勝利的に完結したと受け取れる言葉をイエスの口にのせたのである。

このように新しいものほど、より教団側の意図を反映していると見なされるのである。

 

【註②】

「編集史的方法」

 

「編集史的方法」とは、「福音書記者たちが個別伝承を編集していく作業に着眼し、そこから彼らに固有な思想(イエス・キリスト理解)を確定していかなければならない(のであるが)、その際……福音書記者たちが採用した伝承部分(伝承句)と、彼らがそれらに手を加え、それらを結合していった編集部分(編集句)とを区別しなければならない。そして、この編集部分を手掛かりとして福音書記者の思想を分析・再現する方法のことを、我々は『編集史』的方法と呼ぶ」(『イエス・キリスト』荒井献著、講談社、384頁)

 

【註③】

「福音書編纂の歴史的背景」

 

「福音書の著者たちは、わたしたちが歴史について考えるほど、歴史に関心をもっていなかったことを、福音書研究は明らかにする。過去をなんとかして保存しようとの意図はみられない」(『現代キリスト教入門』W・E・ホーダーン著、日本基督教団出版局、272頁)

聖書「正典」の編纂の意図は――「二、三世紀の正統教会がマルキオン派やグノーシス派の『異端』による教会分裂の危機から自らを守るためにとった手段」(『イエス・キリスト』荒井献著、講談社、488頁)に他ならない。

 

マルキオン(100-160年頃)は、「特定の福音書によりながら自己のイエス理解を排他的に主張する人々……その代表的な例がマルキオンとその党派であろう。彼は旧約聖書の『義なる』神を新約の『善なる』神によって止揚し、『律法』を排して『信仰のみ』の立場(いわゆる「パウロ主義」の一形態)を押し出した。そしてその手段として、10通のパウロの手紙(テモテ、テトス、ヘブル書を除く)とパウロ主義の立場から短縮・改竄したルカ福音書とだけを『正典』とし、神の子キリストの肉体性を否定、処女降誕、復活信仰を捨てたのである」(同上、484頁)

 

マルキオンと同様に、グノーシス主義の一派ではイエス・キリストは肉体を持つ存在として降臨したのではないという。初代教会は、これらマルキオンなどの異端と闘わねばならなかった。

 

以上のごとく、統一原理の立場は、キリストの肉体性を否定、処女降誕、復活信仰などに関して、キリスト仮現説を主張するマルキオンのごとく、それらを捨て去ろうとするのではない。また、正統派信仰のように、非科学的にそれらの出来事を盲信することでもない。

 

次に、グノーシス主義についてであるが、グノーシスとは、ギリシア語で「認識」「知識」を意味し、人間は本来的自己(魂)を「認識」することによって救済されると主張する。

また、「旧約聖書の律法を放棄し、マルキオンと同様に、イエスの処女降誕、肉体による復活を否認したのである。グノーシス派がよった聖書は、パウロの手紙とヨハネ福音書、とりわけトマス福音書であった」(同上、484頁)

 

初代教会の最大の危機はこのグノーシスの異端との闘いであった。

正典に関して、――カトリックとプロテスタントは、新約聖書は同数(27)で、配列も同じである。旧約聖書において、プロテスタントは39の書物、カトリックでは46の書物を有する。

カトリックに含まれ、プロテスタントに含まれない7つの書物はカトリックで第二正典といい、プロテスタントは外典と呼んでいる。その7つとは、トビト記、ユディト記、マカバイ記Ⅰ、マカバイ記Ⅱ、知恵の書(ソロモンの知恵)、シラ書(集会の書)、バルク書(エレミヤの手紙を含む)である。ただし、そのほかに、エステル記とダニエル書の補遺を付け加える。

 

ブルトマンの復活信仰の理解について、――ブルトマンにとって「復活節の出来事は、決して史的な出来事ではない」(『ブルトマン』笠井恵二著、清水書院、107頁)

彼にとって、復活説の信仰とは、「宣教の言葉こそが正当な神の言葉であるという信仰である」(同上、107頁)。つまり復活は客観的な出来事ではなく、イエスの語ったことばを信ずるところにあるというのである。換言すると、「この信仰が発生した史的な出来事が初代の弟子たちに対してそうであったように、よみがえった者の自己証言、十字架の救済の出来事をそこで完成せしめる神の行為を意味するのである」(同上、107頁)という。

 

これがブルトマンの復活信仰の理解であり、復活を歴史的出来事と理解しているのではない。これに対してバルトはイエスの肉体の復活を歴史的な客観的な出来事として捉え、それを信ずべき出来事だという。統一原理は復活を歴史的出来事と理解するが霊的な出来事、霊的からだの復活であると解釈する。

 

多様なキリスト像について――「現在、『イエス・キリスト』と言っても、それはきわめて多様である。このことは、同じキリスト教が、ローマ・カトリック教会、コプト(エジプト)・シリアなどの国民正教会、ギリシア(およびロシア)正教会、英国国教会、プロテスタント教会などの諸教派に分かれており、これらの教派においてイエス・キリスト理解(広義のキリスト論)が異なっている事実を見れば明らかである。さらに、諸教派のうちにプロテスタント教会に至っては、その中に無数の分派が存在し、各派がそれぞれ独自のキリスト論を主張する」(『イエス・キリスト』、荒井献著、講談社、483頁)

 

バルト21 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(21)

(講演)「カール・バルトの現代的意義」(E・ブッシュ)より

 

*E・ブッシュの講演の前半に、本文で論述したバルト神学の骨子が語られている。日本基督教団の牧師らの福音主義神学とは如何なるものなのか、また、牧師らが統一原理をどのように見ているのか、それに対して、われわれがどのように応答すればよいのか、を知ることは大変重要なことである。これらに関しては、すでに本文で述べているが、ブッシュ教授の講演を通して改めて確認することができる。

 

「講演内容」

「バルト神学は、近代世俗主義の持つ無神論と根本的に対決したと言えるでしょう。・・・・・。

神とは信仰または思考によって造り出された信仰または思考の前提だと理解する場合には、人間はそこでは、人間が造り出した形像とかかわるのであって、それにどれほど素晴らしい属性が付与されたとしても、神とかかわるのではありません。それらの属性は、人間によって付与されたものだからです。若きバルトが認識したところによれば、ほんとうに神であるのは、御自らがわれわれの信仰と認識の前提である方のみであって、その場合に、神によってつくられた前提は、決して人間によって『造られる』ことはありえないという事実は変わらないのです」(18頁)。

 

このように、統一原理の創造原理に対して、他の宗教の神観と同様に見て、「人間が作り出した形象」「どれほど素晴らしい属性が付与されたとしても」「人間によって付与されたもの」と見ているのである。そして「ほんとうに神であるのは、御自らがわれわれの信仰と認識の前提である方」「神によってつくられた前提は、決して人間によって『造られる』ことはありえない」と見ているのである。

 

さらにE・ブッシュはバルト神学の骨子を次のごとく簡潔・明瞭に解説する。

「神がイエス・キリストにおいて自らを啓示し給うということが、キリスト教信仰の拠りどころなのです。イエス・キリストは真ノ神(vere deus)なのです」(21頁)。

 

「神がイエス・キリストにおいてわれわれに向って到来し給うということによって、神とは誰かが定義されるだけでなく、人間とは誰かが同時に定義されるのです。バルトの解釈によれば、それが、イエス・キリストは真ノ神(vere deus)であるだけではなく、同時に真ノ人(vere homo)でもあるという古い言葉の意味なのです。彼は、真ノ人を真ノ神との類比において理解しているのです。」(22~23頁)

 

「キリストにおいてはじめて、『ほんとうに』人間とは誰であるかが規定されるというのです。神が人間なしで自分だけで在り給う存在でないように、人間に対する神の関係から神が人間と共なる神であることが認識されるように、『真の人間』は神なしで自分だけで生きている存在ではなく、神の人間に対する結びつきから神が共にいます人間こそが真の人間であることが認識されるのです」(同上、23頁)。

このように、真の神、真の人間について、バルト神学は如何に認識し得るかを述べている。

 

「原理的批評」

ブッシュ教授は、①「神がイエス・キリストにおいて自らを啓示し給う」、②「神とは誰かが定義されるだけでなく、人間とは誰かが同時に定義されるのです」③「人間に対する神の関係から神が人間と共なる神であることが認識される」④「彼は、真ノ人を真ノ神との類比において理解している」という。

 

「問題点」

①バルトはイエス・キリスト以外の啓示を認めないと他の神学者からその狭隘性が指摘され、歴史における神の啓示は一回だけかと批判されている。②統一原理から見て、バルトは「人間とは誰かが定義される」というが、「真ノ人間」とは独身男性なのか。また女性に関しては何も説いていないのではないか。さらに真の「男女の関係」や真の夫婦関係、そして真の「家庭」に関しても、何も説いていないではないか、と指摘することができる。

③「人間に対する神の関係から神が人間と共なる神であることが認識される」というが、具体性がない。キリスト者は本当に神様と共にあるのであろうか(コリントⅠ3・16、ヨハネの黙示録21・3)。神と人間の関係において、人間は僕なのか、養子なのか、実子の関係なのか、真ノ人間(イエス)が神であり、神の子であるなら、「神と人間の関係」は「親子の関係」であるが、キリスト者は神の子として「完全な者」(マタイ5・48)になれると言えるのであろうか。キリストの形に変えられていく過程であるというが、その聖化の過程にあるキリスト者は「完全な者」となり救済されると言えるのであろうか。④「真ノ人を真ノ神との類比」において真の神を認識しているというが、上述のような問題点があるのであって、E・ブッシュとの討論でA氏とB氏の「問い」にあるように、男女の人間関係について何も根本的に説いていないのではないか。また真ノ神と類比した家庭が存在するのであろうか。「神様も家庭がある」(『天聖経』2317頁)のであって、神の本体は真の父母と真の家庭であると言うのである。

 

以上のような問題を提起して見れば、日本基督教団の信仰義認は、救いが個人的次元で、妻は天国、夫は地獄、あるいは親は天国、子供は地獄とばらばらに別れる個人的次元の救いと信仰であるといえる。これでは救われていると、とても言えないのである。

 

実際において、予定論から見て、キリスト者らは、自分が予定された者として、救われているのか、いないのか定かでなく、救いに関して不安はいつまで経っても解消されないのである。信仰義認の救いは、自分は救われているという主観的な思いが基準であって客観的な救いの定義がないのである。

つまりアナロギア(「信仰の類比」、「関係の類比」)といっても、真の神の本体がおぼろげにしか分からないからに他ならないからである(コリントⅠ13・12)。

また和解は人間側からの努力ではなく、神様側からの一方的な予定であるなら、他の予定されていない人の救い(和解)はないことになる。この福音主義神学の見解では万民救済論と矛盾するのではないか。全人類の救いに無関心になるのではないか。

さらに無神論と対決するというが、バルト神学では無神論を排斥することはできても、弁証法的唯物論を統一原理の創造原理を根拠とした「勝共理論」のように、批判・克服して真の愛で彼らを自然屈服させることはできないのである。言い換えると、バルト神学では北朝鮮や中国を平和的に解放することができないし、アジアと世界の平和を実現させることはできないというのである。

以上のように、統一原理によって、バルト神学の虚構性が暴露される。

 

*統一原理の二性性相と言う概念は客観的存在を物質と見る唯物弁証法を批判克服する重要な概念である。また被造物をペア・システム(相対物)と捉え、主体と対象の相対的関係と見る概念は、事物を対立物と捉える唯物弁証法を批判・克服する概念である。そして事物は対立物の闘争によって発展するのではなく、主体と対象の授受作用によって存在し発展すると捉えているのである。

バルト20 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(20)

「補講」(在りし日の日本基督教団の動き)

 

「カール・バルトと現代」(小川圭治編 新教出版社)

ひとつの出会い― E・ブッシュ教授をむかえて

 

エーバーハルト・ブッシュの『カール・バルトの生涯』が出版され、好評を以って迎えられた。この機会に、日本基督教団は、著者ブッシュを1989年9月7日から10月4日まで日本に迎えた。そして日本基督教団の要請に応じ、ブッシュ教授は伊豆の天城山荘の研究会をふり出しに、仙台、福岡、大阪、東京などで、研究会、講演会、そしていくつかの教会で説教を行った。このブッシュの滞在一か月の記録が『カール・バルトと現在』(ひとつの出会い―E・ブッシュ教授をむかえて、小川圭治編、新教出版社、1990年8月31日)にまとめられ報告されている。

特に、仙台では教団、日基、改革派、ルター派など教派をこえ、教職も信徒も一つとなって、エキュメニカルに討論がなされたと述べている。次の対論は、仙台における「ブッシュ博士を囲む研修会」の報告の中からその一部を抜粋したものである。

 

次の参席された諸先生方の発言は、バルト神学の理解を深化させる。

*バルトが少年時代、両親・祖父母・おば・牧師との出会いの中で、多くのものを受けた。また、バルトの自由主義神学からの脱出は、多くの教会的現実の中で、徐々に形成されてきたもので、特に第一次大戦を通し、さらにその後のナチズムとの戦いの中で、弁証神学の基礎が築かれてきた。

特にバルトは、家父長的家庭環境の中で育ち、そのことが彼の神学形成に大きな影響を与えてきたことは否めない。・・・・特に教義学のⅢ/4にある、「男と女」の関係は、つまり男が第一、女が第二という位置は、聖書的に正しいものか。またこれからの新しい社会を形成してゆくのに、男と女に全く同等の相互関係であるべきではないか(A)。

 

*バルトが男女の平等性と男性の奉仕について言及していることは、十分承知しているが、にもかかわらず、バルトのパウロの釈義(たとえば、コリントI11章)は正しくないのではないか。コリントの特殊な状況で言われていることを、原理にしてしまっていないか。男が第一というバルトの考えでは、女系社会や婦人の首相といったものは理解できなくなりはしないか(B)。

 

*この問題は、ドイツではホットな問題であるが、日本でも問題にされていることを知ってびっくりしている。・・・・・。

バルトは、教義学の中で「男が第一、女が第二」といっても、彼が女性を抑圧したことは一度もない。隣人関係がなくなったら、人間ではなくなるとさえ言っている。男女の問題でも「共存の中での自由な決定」ということが中心である。バルトが仕残したことといえば、この原則に反するように見える聖句を、どう解釈し、これを関係づけるかということである(ブッシュ)。

 

*・・・弁証法神学を形成してゆくにあたって、へッぺの『福音主義―改革派教会の教義学』が参考になったという。その正統派的なものから、「何か」を学ぼうとしたと言われるが、その「何か」とは何か。また他の弁証法神学者たちは、正統派から学ぼうとしなかったのか。また教父神学・伝統の摂取において、他の弁証法神学者とどこが違うのか。

またバルト神学の初期と後期との違いは何か。この中でアンセルムスの研究がはたした役割、なぜ『キリスト教教義学草案』から『教会教義学』にかわったのか。よく言われている「弁証法からアナロギアへ」の移行は何か、初期バルトにはアナロギアはなかったのか。また『教会教義学』では、初期の弁証法はどうなったのか(C)。

 

*自由主義から弁証法神学のバルトに移る時、新カント派哲学がどの程度の意味を持っていたのか。人間の小さな宗教意識という窓から超越者なる神を見ている自由主義から脱する時、その宗教意識を成り立たせていたものが超越的な神であるという時、考え方として理想主義的で新カント派と思想構造が似ていると思う。その点どう考えているか。(D)

 

*バルト自身の問題意識があって、それを解決するのにアナロギアに達したと思うが、その点についてお聞きしたい(E)。

 

*弁証法の時代、神自身しか語りえない。人間は、その神を指し示すが、「できない」にとどまっていた。ところが、アンセルムスの研究によって、「神が語りたもうた」、これは人間の側からは基礎づけられない。私たちの側からは待つ以外にない。しかし、それは教会において(すでに)証しされている。教会が信じ、証言している事実、これこそ神学が、神について語る根本的条件である。このことがアンセルムスの「知解を求める信仰」で表現されている。知ることが、すでに信仰において起こっている。つまり、教会において語られ、信じられることを理解するのである。それに基いてさらにまた教会は、あらためて証言し、信じ語ることが問題になってくる。信仰にしたがって問いただすことは、その信じている対象にしたがって考えてゆくことである。教会が信じていることを神学的に認識する、この構造がアナロギアである(ブッシュ)。

 

*古プロテスタントの伝統から学んだという時、それはどの程度の範囲を指していたのか(F)

 

*バルトは、もちろん改革派の伝統から来たが、彼は自分なりの存在を確立する。ではその時、なぜ十七世紀に帰っていったのか。また彼はその時代、喜びをもってカトリックとも出会っていた。人間の意識の中には「超越」がある。ここ一七世紀に帰った理由がある。しかし、神は人間の意識の投影ではない。

つまりここには、はっきりしたバルトのフォイエルバッハ批判がある。他の弁証法神学者との対立・違いは、バルトのフォイエルバッハ批判についての明確さがある。

バルトは、正統主義をそのまま受け入れたのではなく、これを解釈しなおし、ただ神を対象としたのでなく、主体の出会いの出来事としたのである(ブッシュ)。

 

以上は、日本基督教団の諸先生方の真摯な問いの一部である。

バルト19 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(19)

(4)「歴史」(原歴史=キリストの出来事)について

古来、キリスト教は歴史の宗教といわれ、自然の事物を崇拝する原始的な自然宗教とは異なる。

バルトの歴史に対する理解は、一般的な歴史ではなく、神の恵みと人間の応答の間に形成された契約関係が歴史(救済史)だというのである。この救済(「神の予定」)の中に神は自己を啓示し、存在するとバルトは言う。このようにバルト神学は形而上学とは関係なく、歴史の中に生起したキリストの出来事に集中する。すなわち、歴史の過程に生起したキリストの出来事を通してだけ、神を理解しようとするのである。

その救済史とは、言うまでもなく、キリストの降誕、復活、臨在、再臨という出来事である。この歴史の全過程の中に神は存在すると、次のようにいう。

「『使徒の働き』17章二八節によれば、隠れている神は、自己の懐(原歴史)の中に世界史の全過程を包摂する存在である。したがって神の存在とは、歴史の全過程を自己の中に包み込むと同時に、歴史の過程の中に生起するキリストの降誕、復活、臨在、再臨という出来事と同一性を保持するのである」(『カール=バルト』大島末男諸、清水書院、81頁)。「神は救済史の全過程を自己の中に包み込むと同時に、救済史の過程の中に存在する。」(同上、137頁)。

上述のごとく、バルトにとって神を認識することとは、神の救済史を認識することに帰着する。この点は統一原理による神認識と同じである。神を歴史の中に生起した摂理的な出来事に見る統一原理の歴史理解は、すなわち、蕩減復帰歴史(神の現実=救済史)は、バルトの原歴史(キリストの出来事)と一致する。歴史は神の勝利の歴史を原歴史(公式的典型的な路程)として繰り返す。但し、原歴史とはキリストの出来事だけでなく、神の勝利の公式路程となったアブラハム、イサク、ヤコブの家庭的勝利路程を拡大しながらモーセの民族的路程、さらにイエスの世界的路程へと螺旋型を描きながら発展してきたと統一原理は捉えるのである。この蕩減復帰歴史の中に神が存在すると統一史観は見るのである。神の存在と神の現実はこの勝利の公式的な路程(原歴史)の中にあるというのである。

神認識が出来るか出来ないかは、われわれがキリストの出来事(「イエスの路程」=個人路程と「再臨主の路程」=家庭路程)に参与して、神の召命に従順に応答するかしないかというわれわれ自身の5%の決断次第なのである。

バルトは言う、「神から出て神へ戻る神の歴史(救済史)と神の自己認識にわれわれが積極的に参与するとき、真の歴史が形成され、真の神認識が生起するわけである。これは、神から出て神へ帰る神の歴史と神の認識が、 われわれ自身の歴史と認識となるのである」(同上、141頁)。

イエスの出来事(「イエスの路程」)が、神の召命に応答すべき人間の生き方の原型なのである。キリストの出来事に巻き込まれて救済された人間は第二次的な意味でのキリストの出来事である。この両者の間に展開される歴史がバルト神学の主題なのである。

原理観から見れば、歴史の中心は、神と人との接点、すなわち、現実のキリストであり、キリストの生き方に参与する人たちによって、世界史を根源的な意味で決定する。バルトの歴史理解は、ヤコブ路程(家庭的路程)、モーセ路程(民族的路程)を原型とするイエスの霊的路程(霊的な世界的路程)を叙述する神学であるといえる。またそれは同時に再臨のメシヤの路程、すなわち、霊肉両面の世界史的路程の洗礼ヨハネ的な使命(模型)を持った神学であると読むことが出来る。バルトにとって神の召命に応答することが、神認識の出発(「和解」)であり、参与は、完全なる神認識への過程である。それが信仰生活(信仰のアナロギア)なのである。完全なる神認識(家庭的四位基台の完成)とは具体的に何かを、バルトは説き得ないとしても、キリストを現代に蘇らせた功績は偉大である。神の本質にしろ、人間の本質にしろ、また罪認識にしろ、キリストを抜きにして論じ得ないことをわれわれに教えている。

残念なのは自然神学を否定し、ラジカルに啓示を一回きりと解釈し、キリスト以外の啓示を認めないところにある。自然神学に対してブルンナーの示す方向で啓示を理解すれば、バルト神学はもっと豊かなものとなったであろう。またボンヘッファーは「非宗教的に聖書の使信を解釈する」ことにバルトが一歩踏み出さないことに不満を表明した。

現実の歴史の中に「神の本質」と「神の存在」を見るバルトであるが、ナチスの本質を「サタン」と喝破したが、共産主義について反対せず、寛大であって、その本質を見抜けなかったことは指摘しておかなければならない。しかし、イエス様は「なんじの敵を愛せよ」と言われたことを我々は忘れてはならない。文鮮明先生も同じことを言われるのである。文鮮明先生が実践された神様の真の愛は地獄も開放する力なのです。

バルト18 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(18)

(3)「三位一体の神」について

聖書には、神はご自身の「かたち」に似せて男と女を造ったと啓示しているが、イエスは男性格主体として独身の神を顕現されたのであって、女性格としての神は現されていない。実体的な神認識に関して神の対象化は、一面的、部分的であって、今日まで誰も完全なる神(父母)を認識した人はいない。すべての宗教は、個人を救いの対象とし、家庭が対象ではなかった。

バルトの三位一体論は、「キリスト教の神論をキリスト教の神論として・・・すべてのほかの神論および啓示概念から、根本的に区別し、ぬきん出させる(『神の言葉』Ⅰ/2、15頁)と述べているように、特別な重要性をもつ。しかし神の対象化に関して、実体的には個人的(イエス)で聖霊との関係が統一原理のように簡潔・明瞭でない。

 

統一原理の三位一体論は、「神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合性一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった」「イエスと聖霊は、神を中心として一体となるのであるが、これがすなわち三位一体なのである」(『原理講論』、267頁)と論述している。既存神学の三位一体論と相違する。

文鮮明師は、天国は一人で行くところではなく、二人で行くところであると言われている。今日では、神様の真の愛を中心とした真の家庭と言われ、さらに、三位一体の神の本体である概念的な「家庭」の自己対象化について、本体の実体である真の家庭を形成し、その家庭の「三代圏の完成」(四大心情圏と三大王権)として、次のように神の真の愛(心情)を、人間に体験可能なこととして概念的に解明されている。

「本来、神様の本然的な真の愛、真の生命、そして真の血統で連結された真の家庭の中で、祖父母、父母、孫、孫娘を中心として、三代の純潔な血統を立て、父母の心情、夫婦の心情、子女の心情、兄弟姉妹の心情を完成するときに、これらを総称して四大心情圏の完成と言います。ここにおいて、父子間の愛は、上下の関係を捜し立てる縦的な関係であり、夫婦間の愛は、左右が一つとなって決定される横的な関係であり、兄弟間において与えて受ける愛は、前後の関係として代表されるのです。このように、観念的で所望としてだけ残る夢ではなく、神様の創造理想が家庭単位に、真の血統を中心として、四大心情圏の完成とともに実体的な完成をする」(『ファミリー』2004年、5月号、9頁、 04年3月23日 米国ワシントンDC連邦議会上院)。

 

神様の完全な愛が、「家庭単位に、真の血統を中心として、四大心情圏の完成とともに実体的な完成をする。」とある御言に驚嘆する。

 

ギリシャ哲学は、神の概念に関して、唯一・絶対・永遠・普遍などの概念を提供したが、愛とかパッション(激情)などに関して概念的に表現することができなかった。これが西洋哲学の限界である。

しかし、文鮮明師の主体と対象の授受法的思惟は神の愛に関して概念的に論じることを可能にした。親子の愛は上下の関係、夫婦の愛は左右の関係、兄弟姉妹の愛は前後の関係として規定している。神の愛はこれら父母の愛、夫婦の愛、兄弟姉妹の愛、子女の愛を総合した主体的愛のことである。

 

*ギリシャ哲学は神について、唯一性、超越性、永遠性、原因性などいくつかの概念を提供してきた。しかし、こうしたギリシャ流の不変・不動といった静止的な神観や神概念をさらにおし進めていくと、神の「不感性」(情念に動かされない)に導かれていく。これは、怒り、喜び、悔いる、などと聖書に啓示されている神と矛盾する。また、ギリシャ哲学は非合理な罪の問題にも触れていない。合理的なロゴスは愛や罪について考えることは不向きなのである。このように、ギリシャ哲学のイデアとかロゴスは宇宙がいかに形成されたかを説明するのに有用であるが、合理的なロゴスに反抗し、それを乱す激情(パトス)を説明することができなかった。したがって、ユダヤ・キリスト教的な「人格神」「いける神」「愛の神」という観念をギリシャ流に抽象化し概念化することは困難であると指摘されてきた。

 それゆえ哲学的な神学はいろいろな限界があり、「啓示」の本質そのものを定義することはできないと断念され、神は「理解を超えるもの」と神秘的に解され、結局のところ、神の本質に突き入ることはできないというに至った。それで神認識はもっぱら「信仰から」ということになったのである。これがプロテスタント神学の伝統となり、理性や自然神学を退ける理由ともなった。しかし、上述のごとく、愛を概念的に規定した文鮮明先生(アダム言語)の四位基台哲学は、神認識を哲学的に論述することを可能にした。これは神学や哲学における大変な貢献である。

バルト17 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(17)

「補足」

(1)「信仰と理性、人間の努力や責任」について

バルトは応答する能力は和解によるというが、ブルンナーは人間の理性的本質は罪によって実質的には歪められているとしても、神の啓示を受け容れる形式的な可能性をもつと次のように述べている。

「人間はまた罪人としても、他人の語り相手となることができ、また神の語り相手となることもできる」(カール・バルト著作集2、エーミル・ブルンナー『自然と恩寵』、144頁)。「形式的には神の像(imago Dei)は少しも毀損されていない」(同上)。

このように、人間は主体であり理性的存在であり、言語受容能力と応答責任性があるというのである。確かに、「人間だけが神の言葉を受けることができる存在である」(『自然と恩寵』、150頁)。聖書が与えられているのがその証拠であるといえよう。

事実、和解以前のノアやアブラハムやモーセらは、神に応答していたのである。

これに対して、バルトは神の呼びかけに応答する能力でさえ、人間に生得のものではなく神の啓示と聖霊の働きによって新しく創造されるものであるというのである。「聖霊のみによって―ただ恩寵のみによって」(著作集2、カール・バルト、『ナイン!』197頁)と。

バルト神学は信仰には認識が対応している。信仰が認識に先行する。

これに対してブルンナーは次のように批判している。「聖書が信仰を聖霊の業、聖霊の賜物と呼んでいることは確かであるが、しかし聖書は決して聖霊が私の中で信じるとは言っていない。聖霊が私のなかで信じるのではなく、私が聖霊を通して信じるのである」(同上、『自然と恩寵』、152頁)と。統一原理と同様に、信じるということは神の「95%の責任分担」ではなく人間の意志である「5%の責任分担」であることを強調している。人間はロボットではない。5%は神の創造の偉業に人間が参与することであり、人間のみに与えられた偉大な特権である。神のみ旨は「神の95%の責任分担」と「人間の5%の責任分担」の合力よって成就するのである(『原理講論』予定論より 237~250頁)。

 

(2)「トマスの神学」(Thomas Aquinas 1225年頃~1274年)

さてここで、トマスの神学について、少々弁明しておかねばならない。

先に見たごとく、バルトの神学は「自然神学と啓示神学」「理性と信仰」「自然と恩寵」などは、本来絶対に相容れないもの、すなわち、不倶戴天の敵であるという見解が前提となっている。

トマスの神学は、聖書は単に狭い意味での超自然的真理のみならず、自然的真理についても、超自然的立場からのある判断を含んでいると考えられているのである。つまり、聖書は自然神学を除外せず、却ってこれを包含するということである。それが、トマスの「恩寵は自然を破壊せず、却ってこれを完成する」という有名な命題なのである。すなわち、「自然神学と啓示神学」「理性と信仰」とは対立するものではなく、却って前者は後者を受け容れる前提なのであり、啓示神学によって完成するということなのである。

ところで、「完成する」とは、自然に有徳の人が、その徳を積んで完成すればキリストのごとくになれるという意味ではない。罪人はキリストに接木されて初めて可能となる。連続性ではない。生まれ変わるのであって、「再生」、それは過去との質的断絶である。ペラギウス主義は自然と恩寵、道徳と宗教、などを「連続的」に捉えるが、「完成する」をペラギウスのごとく捉えるのではない。また、そのようにトマスを解釈して批判するのは誤解による。

恩恵はあくまでも自然の次元を超えたものであり、その限りにおいて、確かに自然と恩恵との間には断絶がある。しかし、恩恵は自然を否定しないのである。

トマスによれば、「恩恵を受けることによって自然そのものの構造が、それの『あるべきすがた』と、それが現実に『あるすがた』との両方を含めて、いっそう明瞭に透視されてくる」(『トマス・アクィナス』山田晶著、中央公論社、47頁)ということなのである。

恩恵によって現存する被造物の姿と本来あるべき姿(創造本然の姿)が明瞭に分るということである。どのように本来あるべき姿に復帰するかは、連続か中断かですでに述べている通りである。

以上のように、トマスの神学体系は、理性の探求によって得られる神学と、啓示によって与えられる神学を対立させず、前者を後者に秩序づけられているのである。それは決して批判者が言うような自然神学と啓示神学の無原則な折衷でも混合でもない。もちろん、ここで、トマスの神学体系が全き真理であると言っているのではない。啓示と自然の関係について、どのように理解すればよいのか、ということに限って、弁明したのである。ただし、バルト神学からはキリスト以外の啓示を認めないので、啓示神学による自然神学の秩序づけといっても、その啓示、すなわちキリスト抜きでの神認識は拒否される。この主張はトマスに対してだけでなく、プロテスタントのあらゆる神学や他の宗教に対しても同様の批判がなされる。確かに、完全になるのはキリスト抜きでありえない。バルトにとって他者はすべて部分であり、人間学であり、間違いなのである。これは傾聴に値するが、ところでバルトの啓示による神認識は完全な神認識なのであろうか、キリストの再臨が抜けているのではないか。

バルト16 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(16)

「聖化」

聖化は、バルトによれば、われわれの義認の帰結であるとともにその目標であり、正にその両方であるという(『和解論』Ⅱ/3、召命の目標 233頁)。

人間の身に起こる変化の究極は、何であろうか。バルトは『和解論』で「召命の意義と目標」に関して、「キリストとのキリスト者の一体化という最高で究極的な表示」、「キリストと彼の一体化というこの偉大な事柄」(『和解論』Ⅲ/3、304頁)であると語る。

またそれは同時に、われわれが神の国への途上にあって、つまり「この世」で福音を証するために装備を整えることでもある(『和解論』Ⅲ/3、人間の召命、証し人としてのキリスト者 358~359頁)と言うのである。

義認から生起して究極的目標である聖化への道のりに関してブッシュは次のように述べている。

「聖化は、ひとり聖なる方と同じ形になることであり、それはその方の『随従への呼びかけ』に聞き従うことである。この呼びかけがどのように厳しいのか、パウロはローマ書一二・二でこう言っている、『あなたがたはこの世に倣ってはいけません!』。その意味はこうである。キリストに従うことは『神の国の開始に対応しそれを証しする決裂、すなわち、われわれを取り巻く世界の、したがってこの世全体の壮大なもろもろの自明性との決裂』において生起すると。それゆえイエスに従う者は、彼の周りの人たちに対し、『よそ者として、愚か者として、有害な者として』不愉快な存在となることがありうるであろう。彼はそれゆえ十字架をになうことにならざるをえなくなることがありうるであろう」(『バルト神学入門』、155頁)と。

 

聖化に関して、以上のように理解した上で、バルトは「われわれの神学は『旅人ノ神学』(theologia viatorum)、『神の国への途上にある神学』である」(同上、142頁)というのである。

 

*「真の人間」

「神がイエス・キリストにおいてわれわれに向かって到来し給うということによって、神とは誰かが定義されるだけでなく、人間とは誰かが同時に定義されるのです。バルトの解釈によれば、それが、イエス・キリストは真ノ神(vere deus)であるだけではなく、同時に真ノ人(vere homo)でもあるという古い言葉の意味なのです。彼は、真ノ人を真ノ神との類比において理解しているのです。つまり、われわれが人間存在としてすでに知っていることを、キリストにおいても確認するというのでなく、キリストにおいてはじめて、『ほんとうに』人間とは誰であるかが規定されるというのです。神が人間なしで自分だけで在り給う存在ではないように、人間に対する神の関係から神が人間と共なる神であることが認識されるように、「真の人間」は神なしで自分だけで生きている存在ではなく、神の人間に対する結びつきから神が共にいます人間こそが真の人間であることが認識されるのです」(『カール・バルトと現代』ひとつの出会い―E・ブッシュ教授をむかえて、22~23頁)。

 

「原理的批評」

福音主義神学のチャンピオンであるカール・バルトの神学を論ずる際に、批判と反批判を通して見てきたが、日本基督教団の多くの学者が、バルト側につき、他の神学や自然神学に対して厳しい批判的観点と見解を保持している。それゆえ、バルト神学に対して原理的観点から見て肯定面と否定面の両面が見えるので、特に、優れた点を指摘すると同時に、バルト神学の排他的狭隘性を指摘せざるを得なかった。

だが、バルトの自然神学への批判は傾聴に値することも事実である。またバルトは人間の生得的な力で、人間の問題をすべて解決でき、神抜きで自己自身の諸問題を自分の力で救済できると考える人間の傲慢さ、すなわち「罪」を根本的に打ち砕いている。言い換えると、世界平和にしろ、社会問題にしろ、あるいはまた「神の本体」や「人間とは誰であるか」という問題、さらに、罪の認識と神の義の問題等々について、それらの根本的解決のためには、キリストを抜きにしては不可能であることをわれわれに悟らしめ、キリストを現代に蘇らせ、「和解」が現代の歴史的政治的な状況の下で、現代人と根源的に深く関係し、われわれがキリストの恩恵によって存在していることを教えている。まさしく、バルトは人間とは誰であるかを知り、真の神を知り得るのは、キリストによる以外に方法がないとことを教えている。

ただし、次の点は指摘しておかなければならない。「統一原理」を知るわれわれにとって、キリスト抜きで神認識は不可能であるとそう教えるバルトと、教わるわれわれとの間に、「神の知」について、その内容に大きな差がある。彼の説く神は「三位一体の神」であるが、神の対象化としては独身男性の一面的な神である。

神様の本体について、文鮮明師は「神様も家庭がり」、「家庭は核である」(『天聖経』2317頁)と語っておられます。神と人間との関係は親子の関係なのである。神の対象化である再臨主の家庭を通して、神認識に関しておぼろげでなく顔と顔を見合わせるごとく鮮明となる。「神の対象化」(家庭的四位基台)についてそうだし、「神の愛」(四大心情圏)についてそうである。われわれが知る神は完全な神である(コリントⅠ13・12)。バルトと同様にキリストによるが、ただし再臨のキリストによる。カントが批判する存在に根拠を持たない形而上学的な妄想や独断論としての神ではない。誰もが家庭において経験できる神の愛である。

 

周知のように、バルト神学は他の神学理論を破壊する。既存神学の概念や観念を排除する意味で神の摂理を担当する洗礼ヨハネ的使命を帯びた神学であるといえるが、同時に、統一原理の創造原理は自然神学であるとして敵対してくる側面もある。

バルトのキリスト中心主義による聖書解釈は既存の福音主義(正)と自由主義神学(反)を止揚統一(合)した弁証法的見解であると言えよう。しかし、その神学は完全な神学ではなく、再臨のキリストに出会うまでの「旅人の神学」であり、「神の国への途上にある神学」であるということを忘れてはならない。

 

「主要参考資料」

『カール・バルトの生涯』エーバーハルト・ブッシュ、新教出版社

『バルト神学入門』エーバハルト・ブッシュ、新教出版社

『バルト初期神学の展開』T.F.トーランス、現代神学双書64、新教出版社

『バルト』大木英夫著、講談社

『カール=バルト』大島末男著、清水書院

『カール・バルト著作集2』エーミル・ブルンナー「自然と恩寵」。カール・バルト「ナイン!」

『カール・バルト著作集8』知解を求める信仰 新教出版社

『カール・バルト著作集4』ルートヴィヒ・フォイエルバッハ 教義学論文集、新教出版社

『トマス・アクィナス』山田晶著、中央公論社

『カール・バルト著作集』14、『ローマ書』新教出版社

『教会教義学』(「神の言葉」、「神論」、「創造論」、「和解論」)新教出版社

バルト15 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(15)

「和解論」

バルト神学解説の筋道は、いろいろな資料を基に、主としてエーバーハルト・ブッシュ教授の著『カール・バルトの生涯』を参照した。和解論はバルト神学に対する最近の批判も取り入れて解説している『バルト神学の入門』に依存した。

 

*エーバーハルト・ブッシュ(Eberhard Busch)1937年ドイツ・ラインラント州ヴィッテンで牧師の子として生まれた。59年からバーゼル大学でバルトに師事、65年からバルトの死(68年)まで秘書を務めた。その後、牧師時代に著した『カール・バルトの生涯』(邦訳は新教出版社)が高く評価され、ゲッティンゲン大学に招聘され、定年まで教鞭をとった。

「教会教義学」の『和解論』に関して大木英夫氏は次のごとく述べている。

「キリスト教的な神認識と人間認識が可能となる場所・・・・和解だけが、そこから、罪とは何かが、キリスト教的に洞察され判断される場所である。・・・・和解とは、神からまた自分自身から疎外された人間にとって何の出発点もないところの真空の中に、神ご自身が一切の認識の出発点を設定したもうたみ言葉だからである」(『バルト』大木英夫著、講談社、260頁)。

上述の文言にあるように、バルトにとって、「和解」こそが、真の神認識、真の人間認識、そして罪認識などの一切が洞察され判断される場所であり出発点なのである。

 

バルトは『和解論』で罪認識について次のように述べている。

「人間が罪の人間であるということ――人間の罪とは何であり、罪が人間にとって何を意味するかということは、イエス・キリストが認識されることによって認識される」(『和解論』Ⅰ/3、57頁)。

このように罪の認識はキリストによって認識されるというのである。それでは罪が目に見えるものとして認識されるとは、どういうことなのか。

罪はキリストがそれをわれわれに代わって担われたところで、すなわち「神の御業全体を脅かす神ご自身にとって絶え難いこと」(『バルト神学入門』130頁)として、目に見えるものとなるというのである。

 

次に、「神の義」に関して、不義なる者を義とする方は,それが神にほかならない。バルトは古典的な教説を超えて、神はただ人間だけを義とするのではないと言う。「この不義なる人間の義認の業において、神は、御自身をも――そして、先ずもって御自身を、義とし給う」(『和解論』Ⅰ/3、368頁)というのである。

 

それでは神は人間の義認の業において、如何にして御自身を義とし給うのであろうか。そのために、まず、バルトは罪をどのように認識しているのかを見てみよう。

 

バルトは罪について次のように述べている。

罪は、「われわれにとって耐え難いと同じように、神にとって耐え難い。しかしキリストはこの耐え難いものを克服するためにご自身を罪にさらされた。罪の克服とは神がこの耐え難いものと和解しないことである」(『バルト神学入門』、130頁)。

このように、「罪の克服とは神がこの耐え難いものと和解しないことである」といい、さらに次のように述べている。

 

「神は、罪の敵であり、罪は、神の敵である」(『和解論』Ⅰ/3、人間の高慢と堕落 94頁)。

「神がイエス・キリストにおいて罪に対して示し給う優越は、この〔罪という〕要素に対しての神の絶対的な『否』であるが、しかも同時に、この要素を代表する者としてのわれわれ自身に対しての『否』でもある。・・・・仮借のない神の怒りの『否』である」(同上、『和解論』、93~94頁)。

神は人間をその罪のゆえに愛し給うのではない。神は人間を愛し給うゆえに、人間の罪に逆らうのである。

このように、罪に対する否から和解が弁証法的に語られる。

すなわち、「和解において罪の『古い人間』が改善されるのではない。そうではなく、そこで神が古い人間に決着をつけたもう」(『バルト神学入門』131頁)と言うのである。

バルトは、和解がこうした否なしに考えられるとすれば、それは「不正との和解」になるというのである。

 

したがって、神が罪人を否定するのは、「神の義」であるが、同時に否定された人間を義として肯定せんがためであるというのである。

このようにバルトは、「罪」と「神の義」の関係において、弁証法的思惟で理論的に解明しようとしているのである。

確かにバルトの主張は論理的で整合性がある。しかしこの主張は、従来の宗教改革者たちの信仰によって「罪あるままで義とされる」という教説と相違していないであろうか。

 

*神の義とは、人間が「古い人間に決着」することである。しかし罪ある人間は罪を清算できない。罪は罪のない人間によって清算されると次のように述べている。

「審かれ・殺され・決済されたこの人間」(『和解論』Ⅰ/3、60頁)。「われわれに代わって、従って、この私にも代わって、そのようなことが、イエス・キリストの身に起こったのである」(同上、60頁)。「われわれは、そこで、イエス・キリストにおいて、神の怒りによって、捕えられ・罰せられ・審かれた古い人間そのものである。」(同上、60頁)。「彼は、まさにわれわれに代って、この古い人間と連帯的に、従って、われわれと連帯的に、苦しみ、また死に給うた」(同上、60頁)。「神に対してだけ希望を懐いて、苦しみ、また死に給うた。われわれに属するものであることを身に引き受け、そのような者として、われわれの行為が――われわれが、神の前に受くべき苦しみを苦しみ給うことによって、神を正しとし、御自身を不正とし、そのような従順の形においてだけ希望を懐いて、苦しみ、また死に給うた」(同上、60~61頁)

 

「人間自身」

統一原理は神の血統という観点から、「堕落人間」と「本然の人間」(真の人間)を区別する。同様にブッシュ教授は、バルトの罪と義の区別に関して、次のように「人間存在」(人間自身)について述べている。

「神が罪人を否定するのは、人間を肯定しておられるからである。・・・人間はその悪行によっても自らの人間存在を失うことはできない、それが神が人間を義としたもうということである。逆に、人間は、自分の最上の業によったとしても、それによって自らの人間存在を自ら獲得することはできない。この意味で、人間の人間存在と、もろもろの行為の行為者としての人間とのあいだは、区別されなければならない」(『バルト神学入門』、150~151頁)。バルトはそれらの行為から区別されるべき人格を「人間自身」(『和解論』Ⅲ/4、216~225頁)と呼んだ。

 

このようにバルトは、人間の罪と義を区別する。そして罪人の義認において神が愛し給うのはこの「人間自身」に他ならないと言うのである。

 

*「神は人間をなるほど罪人としても知りたもう。しかし神は人間をその罪のゆえに愛したもうのではない。神は人間を愛したもうがゆえに、人間の罪に逆らう。神は人間を義とすることによって愛したもう。この人間はわれわれには隠されている。この人間をわれわれは信じることしかできない。・・・・われわれは、人間としてのわれわれの存在と罪人としてのわれわれの存在とのあいだの、罪人には不可能な、しかし神には出来る区別を肯定し、神に従いつつそれを自分のものとして理解するのである」(『バルト神学入門』、151頁)と。

 

外的に見て、イエスと周りの人間とは何ら変わることがなく区別ができない。統一原理は「堕落人間」に神様は臨在しないが、イエスは神様と一体となった神性をもつ「本然の人間」(実子=聖なる方)であると捉え、血統から見て、「本然の人間」(神の子)と「堕落人間」(罪の血統を持つ人間)を区別している。神が愛せるのは「本然の人間」(真の人間)のみである。それでは如何にして善にも悪にもなる堕落人間を神が愛し給う「人間自身」、すなわち「本然の人間」に再創造(新生)することができるのであろうか。

バルト14 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(14)

「原理的批評」

イスラム教から、「神は唯一である。しかしキリスト教には三人の神がいる」と批判されている。

しかしバルトの三位一体論は啓示を根拠とし、時間の中に割って入る歴史的事実を強調する。この教説が他宗教から抜きん出たキリスト教の特徴であるとする。しかし伝統的な三位一体論と同様に、神とイエスと聖霊の関係と一神論の関係に関しては、やはり明解ではない。「位格の問題」「存在の仕方」「数字の一に還元」「神人協力説」など、いろいろな批判に反論しながら、巧みな言葉の言い回しによって、苦心して論じているが、どこか無理がある。「本質において同一である」とか、「神は父・子・聖霊の三位一体においてただひとりの神である」と認識しているので一神論からの離反でないというが、やはり鮮明でないといえよう。

 

三位一体論と存在論と救済論は関連し、整合性がなければならない。聖書には「神の定義」はないという神学者がいるが、聖書によると、神の似姿として、無形なる神の分立対象実体としてアダムとエバが創造されたと定義されている(創世記1・27)。同様に無形なる神の分立対象実体がイエスと聖霊(霊的実体)であると定義される。したがって「神―アダム―エバ」と「神―イエス―聖霊」の関係は類比関係である。この類比から三位一体論を再考察する必要性があるのではないか。

再臨主の「完全な真理」以外はすべて部分的真理である(コリントI13・10)。したがって「完全な真理」である再臨のキリストによって三位一体論の虚構が暴露されるのはバルト神学も例外ではなさそうである。

 

*既存の三位一体論が否定される場合、われわれはキリストと聖霊をどのように理解するのだろうか。無形なる神様の有形実体がイエスと聖霊であると統一原理は見る。イエス様と同様に、霊的実体である聖霊に人格があるのである。

*統一原理の三位一体論は、「神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合成一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった。」とあり、同様に、「イエスと聖霊は、神様を中心として一体となるのであるが、これがすなわち三位一体なのである」(『原理講論』、267頁)と論述している。

統一原理は神様の分立実体対象がアダムとエバであり、イエス様と聖霊であるというのである。イエス様は「最後のアダム」(コリントI15・45)、あるいは「第二の人」(コリントI15・47)といわれている。すなわち、イエス様は人であって、イエス様の体は神様が臨在する神様の体であるという意味である。言い換えると、神様と一体化したイエス様は創造本然の堕落していない「真の人間」であるという意味である。

同様に、バルトはキリストにおいてはじめて、『ほんとうに』人間とは誰であるかが規定され、神が共にいます人間こそが「真の人間」であることが認識されると述べている。このように、バルトは真の人を真の神との類比において理解しているのである。

*真の神認識(三位一体の神)について、大島末男氏は次のように述べている。

「神の真理とは、三位一体の神の交わりの中で、父なる神と子なる神が相互を対象として認識し合うことを本質とする。この神の自己認識の出来事が、われわれの神認識の原型、本質、力なのである。それゆえにわれわれの神認識は、三位一体の神の自己認識の出来事に基づいて真理となるのである。」(『カール=バルト』大島末男、140頁、清水書院)

「父なる神と子なる神が相互を対象として認識し合う」とは統一原理が解明している「三対象目的」(『講論』54頁)、すなわち「神とイエスと聖霊」、「神とアダムとエバ」が相互を対象として認識し合うことであり、その中で、神と神の息子であるイエスの関係のことである。この神の自己認識は、神と神の娘であるエバ(聖霊の実体)との関係における自己認識に関しては論述していない。

「神の本体」の認識とは、神の対象であるイエスと聖霊、あるいはアダムとエバの関係を認識することに他ならない。三位一体とは神とイエスと聖霊が一体であるということであり、同様に、神とアダムとエバが三位一体であるということを意味する。ただし、アダムとエバは堕落して神を中心として三位一体とならなかった。

イエス様が子供から少年、そして成人として成長していかれたように、「神様も成長する」(『天聖経』1590頁、「宇宙の根本」)と捉えることができる。アダムとエバが成長して個性完成して結婚する時、アダムとエバの結婚式は神様の結婚式となるのである。子供が生まれれば、アダムとエバは父母となる。これは、すなわち、神様が「真の父母」になられたということを意味する。

このような視座から、神様(イエス様)の願いは「真の父母」になることであったと捉えることができる。したがって、「神の本体」とは「真の父母」であると認識することができるのである。このように、上述の文鮮明師の見解が、三位一体の神の自己認識の出来事に基づいて真理となるのである。

三位一体の神の本体とは「神様も家庭があり」、「家庭は核である」(『天聖経』2317頁、「真の家庭と家庭盟誓」)ということである。したがって、神様が同居できる家庭的価値を備えてこそ天国に入籍できるのである。