当サイトで議題とする神学者とその理由などについて紹介しています。まず始めにお読みください。



ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(12)

(6)「認識論や価値判断は存在論に基盤をもつ」

 

ティリッヒは、認識論や価値論が「存在論」に基盤を持たなければ、超越的妥当性にとどまるか、恣意(しい)的偶然的な実用主義に陥り、「論理と実在」の関係の問題を見落としてしまうという。このことに関して、藤倉恒雄氏は次のように述べている。

 

「認識行為の分析は存在の解釈なしにはあり得ないし、また、倫理的な価値判断にせよ、その妥当性の主張は存在論的基盤を要求すべきものとする。………プラトンが善と本質的構造(存在の諸理念)とを同一化している点を指摘し、価値が実在に基盤(fundamentum in re, a foundation in reality)を持たないなら、超越的妥当性に止まるか、諸本質の存在論に基づかぬ恣意的偶然的な実用主義に服さざるを得なくなるとする。論理実証主義や言語分析の諸学派が伝統的な哲学的諸問題を捨象して、哲学を一種の論理的計測(科学的論理)に還元するのも、彼らが意味論(セマンティックス)の展開において記号や象徴、さらには、論理的操作のもつ実在との関係問題を見落としている結果とし、………哲学が存在の構造を問題にする以上、存在論的たらざるを得ないとする。」(『ティリッヒの「組織神学」研究』、藤倉恒雄著、新教出版社、47頁、参照:ティリッヒ著『組織神学』第1巻、24-25頁)

 

また、ティリッヒは、新カント学派が先験的認識論において、ついに存在論を認めたと次のように述べている。

 

「十九世紀における新カント派とその関連諸学派が目差したような哲学を認識論と倫理学とに還元する試み………また二十世紀における論理実証主義とその関連諸学派が目差したような哲学を論理的計算に還元する試み………存在論を避けようとする両学派の試みは不成功であった。新カント派哲学の後期の信奉者たちは、どの認識論も暗黙の中に存在論を含んでいることを認めた。」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、24頁)

 

以上のように、認識論、論理学、価値論、倫理論が存在論に基盤を持たねばならないというティリッヒの主張もまた「統一原理」(統一思想)に一致する。彼は、哲学者も神学者も存在論的問題を避けることができないと次のように述べている。

 

「神学が、われわれの究極的関心を取り扱う際、そのすべての命題において存在の構造、その範疇(はんちゅう)、諸法則、諸概念を前提している。それゆえに、神学が存在の問題を避けることの出来ないのは、哲学と同じである。」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、26頁)

 

このように、彼の神学は統一原理を受容可能なものとせんがための洗礼ヨハネ的使命を持った神学であると言わねばならない。

 

(7)「神を存在論的に把握する意義」

 

ところで、ティリッヒは、神を「存在自体」と存在論的に把握しているが、「その概念を必ずしも明確に整理していなかったといわざるを得ない。」(「ティリッヒの『組織神学』研究」、藤倉恒雄著、106頁)と指摘されている。

 

「存在のアナロギア」による完全な神の叙述は、再臨のメシヤの理性によらなければ不可能なのであろうか。

愛の概念化も同様に困難とされ、善も主観的な感情の表現であって、客観的に定義されないといわれている。しかし、絶対的真理として善を存在論的に客観的に定義されなければ、ティリッヒが指摘するごとく「恣意的偶然的」「時代的」「実用主義的」にならざるを得ない。

 

人間の良心や正義感も、時の権力者によって利用されることもあり得る。すべてが相対的なものとされるなら、お互いが正義を主張し、戦争や闘争は永遠になくならない。

真の愛や絶対善が恣意的主観的でなく、客観的に存在論的に解明されないと、罪を審判することも、平和を実現させることも、「救いを完成させること」(天国実現)も不可能である。救いは、救われたと主観的に思い込むことではない。客観的に存在論的に神認識を説き、救いの定義を与えることと同時に、神の愛を完全に認識することは経験可能であると客観的に説くことである。

 

文鮮明師は「四大心情圏」と「三大王権」として神の愛を概念的に解明し、メシヤに接ぎ木された祝福家庭は、真の神の完全な愛を家庭で経験できると説かれる。このように、客観的に具体的に人間の完成目標を「完全な神の完全な愛の体恤」(家庭的四位基台の完成)と明示することである。そうでなければ、救われていると主観的に信じるだけで、客観的に救われたのか、救われていないのか、何時まで経っても分らないのである。

 

実存的状況の下では、キリスト者は救われているという予定論の絶対的な確証はなく、不安はつのるばかりで、いつまで経っても不安は解消されないのである。

 

ティリッヒは、「愛は存在論的概念である。………神は存在自体であるから、存在自体は愛であると言わなければならない。」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、353頁)と述べている。

 

『原理講論』には、「夫婦として完成されるためには、神を中心として、男性と女性が三位一体となり、四位基台を造成しなければならない。」(446頁)とある。

神と真の人間の類比から、「神-イエス-聖霊」の三位一体と「神-アダム-エバ」の三位一体も類比関係であると捉え、「イエスとアダム」そして「聖霊とエバ」が対応しているので、エバと対応する聖霊は〝女性である〟と断定される。したがって、無形なる神の実体対象である「イエスと聖霊」すなわち「アダムとエバ」は「人類の父母」として実体として顕現すると解釈できる。

 

バルトが、神は「三位一体の神」であるという所以もここにあると言える。ただし、「三位一体の神」の解釈において、伝統的神学もそうであるが、バルトの神学も神の女性的要素が抜けているのである。

フェミニスト神学は『聖霊は女性ではないのか』(E・モルトマン=ヴェンデル、新教出版社)と言っている。

 

しかし、伝統的神学は、イエスは聖霊によってマリヤから生まれたので聖霊は男性の霊と解釈し、神を「天の父」というが、「天の父母」とは言わないのである。

しかし、聖書には、神は「種をもつ草」(創世記1・11)と動物を創造し、ノアの洪水審判の時に、種類にしたがい「つがいの動物」(雄と雌)を箱舟にいれなさいと命じられた(創世記6・19)とある。

 

また、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1・27)とある。

それゆえに、文鮮明師は、人間、動物、植物、鉱物などすべての存在は〝ペア・システムである〟と語られている(『宇宙の根本』)。

 

神のかたちに創造された人間もペアであるので、神を存在論的に捉えると、神は「天の父母」であるという概念が出てくるのである。

イエスも「父母」(マタイ19・5)と語っておられる。神は、男性的要素だけではないというのである。

ティリッヒの言う「自己-自然」構造は、彼は論じていないが、原理的に言うならば神に似たペア・システムなのである。

 

以上のように、ティリッヒは存在論的な究極者の神概念に基づいて、キリスト教の「使信」を再解釈しようとしたのである。

この偉大な神学者に、われわれは敬意を表するのである。アメリカの神学界も彼から多大な影響を受けたのである。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(11)

(2)「存在論からの神の証明についての諸問題」

 

ティリッヒは存在論的に神を叙述することについて、「存在自体の構造的要素」から論述すべきだと次のように述べている。

 

「神は存在の根拠であるから、神は存在の構造の根拠である。神がこの構造に従属しているのではなく、構造が神のうちにその根拠を有するのである。神はこの構造であり、この構造による以外神について語ることは不可能である。神に至る道は認識的には存在自体の構造的要素を通してなされなければならない」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、新教出版社、302頁)。

 

しかし、神に至る道は認識論的には「存在自体の構造的要素」を通してなされなければならないとティリッヒは言うが、その存在自体の構造要素とは何か、また、神に構造があるのか、目で認識できるのか、神を被造物の次元で把握しているのではないか、という問題点が指摘された。

 

周知のように、統一原理も存在者の構造的要素に関する分析から、「性相と形状の二性性相」、「陽性と陰性の二性性相」という概念で「存在自体の構造的要素」を「二性性相の中和的・統一体」(唯一論)と存在論的に叙述している(『原理講論』の「創造原理」)。

 

この新しい神観は、ティリッヒの存在論的な神の捉え方と一致する。ただし、ティリッヒの「存在自体の構造的要素」に関しては、神に構造があるのかと批判され、統一原理のように構造を性相と捉えることができなかった。それゆえ、彼は『組織神学』第二版で、神の叙述において経験的範疇(はんちゅう)の適用を〝象徴〟と改訂せざるを得なかったのである。

 

大島末男氏は、象徴について肯定的に評価して、次のように述べている。

 

「存在自体であるティリッヒの神は、本質と実存の分裂に先行するので本質ではなく、存在(実存)と意味(本質)の根拠である。また存在自体、無制約的な力と意味である神は有限な存在者を無限に超越するのに対し、人間は有限性のカテゴリーによって制約されるので、最高存在者という概念も存在者(実存)のレベルまで引き下げる。それゆえスピノザとライプニッツが、それぞれ、有限な存在者の実体、また有限な存在者の原因として神を定義する時、究極的実体や第一原因という概念は、存在自体すなわち創造的・深淵的な存在の根拠の象徴的表現であると解釈されるべきである。つまり宗教的な神は、哲学的には存在自体であり、キリスト教の創造神(力の神)は、哲学的には存在の力、スピノザの『能産的自然』(natura naturans)によって象徴される」(『ティリッヒ』、大島末男著、清水書院、142頁)

 

しかし、統一原理の「性相と形状の二性性相の中和的・統一体」という神概念は、神には形状(構造)はあるが、形状は「第二の性相」として見るのであって、その形状は他の存在者に並ぶ一存在として、目で認識可能な「構造のある『有形なるもの』」ではない。

第一原因の性相と形状は「無形なる存在」であって、被造物に対して「性相」的な存在なのである。

したがって、ティリッヒのごとく〝象徴〟と修正する必要性はない。統一原理の性相的存在という神概念は、存在論的に神を叙述する困難を解消しているというのである。

 

(3)「存在自体」(存在の類比)について

 

ところで、有限なる存在の一部にすぎない人間が無限なるものに関する基盤となり得るのであろうか。

この「問い」について、ティリッヒは神と人間の「存在の類比」(存在のアナロギア)から、この問題は解決できると次のように述べている。

 

「何となれば、無限的なものは存在自体であるからであり、またすべてのものが存在自体に関与しているからである。Analogia entis(存在の類比)は、有限的なものから無限的なものについての推論によって神への認識を得ようと試みる疑わしい自然神学の特性ではない。Analogia entisは、われわれが神について語ることの唯一の正当性をわれわれに与える。それは、神は存在自体と解されなければならない事実に基づく」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、304頁)と。

 

このように、ティリッヒは疑わしい自然神学ではなく、神は存在自体であるという根拠から、神と人間の「存在の類比」が成立するという新しい自然神学の可能性について述べているのである。

 

すなわち、神の存在と人間の存在との「存在の類比」(存在のアナロギア)から神認識の可能性とその叙述の正当性が主張されるのである。

「象徴として」というのは、第一原因を論証する因果律に対するカントの批判によってティリッヒが修正したことによる。しかし、先に指摘したごとく、神を無形として捉える「性相」という概念によって、神の構造的要素の叙述を〝象徴〟と修正する必要性はなくなるのである。

 

人間が如何にして無限なるものの基礎となり得るかという問題に関して、ティリッヒはハイデガーの著『存在と時間』を引用して次のごとく述べている。

 

「存在の構造が顕わになる場所を『現存在(ダーザイン)』と呼ぶ。………人間が自己自身で存在論的問いに答えうるのは、彼が存在の構造とその諸要素を直接に経験するからである。」(同、212頁)

 

ハイデガーは、人間だけが直接この構造を意識していると次のように述べている。

 

「現存在は、ただたんに他の存在するものの間にだけ現われるような、存在者ではないのです。むしろ現存在は、自分の存在において、この存在そのものを問題とする存在」(ハイデガー著『存在と時間』(上)、岩波文庫、34頁)である。

 

また、ティリッヒは次のように述べている。

 

「人間は他の諸対象の中のすぐれた一対象としてではなく、存在論的問いを問い、自己意識の中に存在論的答えを見出しうる存在として、宇宙を構成する諸原理は人間の中に求められねばならぬ………」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、211-212頁)と。

 

ここで注目すべきことは、「宇宙を構成する原理は人間の中に」という文言である。啓示論で、キリストは「すべての啓示の基準である」とティリッヒは述べていたが、それと関連させて、完成したアダム(キリスト)が、「存在」とは何かを解明することができるのである。

 

(4)「存在の力」について

 

統一原理は「存在の力」、すなわち「万有原力」について次のように論述している。

 

「神はそれ自体の内に永存する二性性相を持っておられるので、これらが万有原力により相対基準を造成して、永遠の授受作用をするようになるのである。この授受作用の力により、その二性性相は永遠の相対基台を造成し、神の永遠なる存在基台をつくることによって、神は永存し、また、被造世界を創造なさるためのすべての力を発揮(はっき)するようになるのである。」(『原理講論』51頁)

 

聖書に、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、あきらかに認められるからである」(ローマ1・20)とある、その「神の永遠の力」を統一原理は「万有原力」として表現し、神が如何にして「自存」しているかを存在論的に万有原力と授受作用および授受作用の力として簡潔明瞭に概念化して述べているのである。

 

先に論述したごとく、ティリッヒは、神を「存在自体」「存在の力」として捉える神観こそ聖書的であると言ったが、その存在論的な神観は、統一原理の神観を受容可能にする洗礼ヨハネ的な使命をもった神学であると言えるのである。

 

(5)「神と被造物の関係」について

 

次に、「神と被造物の関係」について、神と被造物がどのように関係しているのか、という神学的難題についてであるが、先に解説した「万有原力」と「授受作用」および「授受作用の力」で、統一原理は次のように解いている。

 

ただし、罪と死の支配下、実存的制約下にある被造物に対して、神は如何にして関係し、「主管」(関与)しているのであろうか、という難題があるのである。

統一原理では、神の直接主管圏と間接主管圏(原理結果主管圏)のあることを論述して、この疑問を解く鍵を与えている。

 

神は堕落行為に干渉されない。また、文鮮明師は人間始祖アダムとエバの堕落によって〝夜の神〟と〝昼の神〟の分裂があり、メシヤ(第3アダム)である真の父母の完成によって〝夜の神〟と〝昼の神〟が統一したと語っておられた。バルトが、〝神は隠れる〟と言っていたことを理解することができるのである。

 

隠れるのは創造前の純粋な夜の神である。このような原理的理解の(もと)で、下記の原理から見た見解をみていただきたい。

万物は堕落していないが、主管者である人間が堕落して宇宙が「罪の支配」(サタンの主管)の下にある。それなのに、なぜ今でも宇宙(自然)は破壊されずに存在しているのか。存在の力である神の関与なくして存在し続けられないのに、なぜ存続しているのであろうか。

神は、唯一、絶対、永遠、不変である。したがって、神が創造した原理も絶対である。原理で創造した被造物が堕落したからといって破壊するなら、神は失敗の神となり、原理の絶対性を自ら否定することになる。それで、その原理で堕落した人間を再創造されるのである。どのように原理によって再創造されるかは統一原理の人類歴史を解明した蕩減復帰原理と御言を見ていただきたい。

ティリッヒは、実存の制約下で、人間と宇宙(自然)は破壊されているが、キリストによって人間と自然は新しき存在に創造され、超自然の力の介入によって神の国が実現化するという。

文鮮明師は、歴史の目的はただ一人のメシヤを降誕させることにあると言われ、人間の堕落によって、サタンの主管下で破壊された人間と宇宙(自然)を、再臨のメシヤ(真の父母)が再創造し、サタンを自然屈伏させ、真の父母の完成によって創造目的が完成し、夜の神と昼の神の分裂が統一されると語られ、「全てを成した」、「完成、完結、完了した」と宣言された。神様の直接主管する時代(神の国)が到来するという意味である。

 

今まで誰も解明できなかったこれらの神学的問題に関して、文師の御言と原理は、すべて解明しているのである。

「神は被造物とどのように関係しているのか」という問い関して、統一原理は次のように解明している。

「また、被造物においても、それ自体をつくっている二性性相が、万有原力により相対基準を造成して、授受作用をするようになる。また、この授受作用の力により、その二性は相対基台を造成し、その個性体の存在基台をつくって、はじめて、その個性体は神の対象として立つことができるし、また、自らが存在するためのすべての力をも発揮できるようになるのである」(『原理講論』51頁)と。

 

このように、統一原理の解く「万有原力」(神の永遠の力)は、ティリッヒが「存在の力」「万物の中に在る存在せしめる力」「万物を目的に導く力」という、その「存在の力」のことである。

また、ティリッヒは「存在の力としての神はすべての存在と存在の総体(世界)とを超越する」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、300頁)と述べている。

 

以上のごとく、統一原理は、ティリッヒがいう「万物の中に在る存在せしめる力」(授受作用の力)の根源、すなわち「神の永遠の力」を「万有原力」と言っている。また、統一原理は「生命」「活動」「存在」の原理を「授受法」として説いている。

すなわち、すべての存在者は「神のうちに生き、動き、存在している」(使徒行伝17・28)のである。神は人間を形象的個性真理体として、万物を象徴的個性真理体として創造された。したがって、「人間の在り方」(四位基台)は、「万物の在り方」(四位基台)なのである。

 

以上のように、ティリッヒの「哲学と神学」の「相関の方法」や「存在論からの神概念の叙述」は、統一原理との類似において、極めて重要な神学であるといえるのである。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(10)

(B)神の現実

 

(1)「存在としての神」

 

神を「存在としての神」と捉えるティリッヒは、次のように述べている。

 

「神の存在は存在自体である。神の存在は、諸他のものと並ぶ一存在、または諸他のものの上にある一存在の実存としては理解され得ない。もし神が一存在であるならば、神は有限性の諸範疇(はんちゅう)、特に空間と実体の範疇に従属することになる。たとえ神が『最も完全な』また『最も力ある』存在という意味で『最高存在』と呼ばれるとしても、右の状態には変わりはない。最上級の語でもそれが神に適応されると、縮小語になってしまう。最上級の語は、神をすべての存在の上に高めつつ、実は神を他の諸存在と同一水準に置くことになる。………無限または無制約的な力と意味とが最高存在に帰せられる時、最高存在は一存在であることをやめて存在自体となる」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、298頁)と。

 

上述のように、神を他の諸存在と同一水準に置くことにならない神観とは、ティリッヒによると、神を「存在としての神」(「存在自体」と「存在の力」)として捉えることなのである。

 

ティリッヒは、世界内存在としての人間は、実存的諸制約のもとで「存在の根拠」より疎外され、自己の本質を喪失していると見る。したがって、人間は自己と世界の「存在の根拠」と「意味」を問わざるを得ず、すべての実在を在らしめ、根拠づけている「存在自体」(being itself)、すなわち「究極者」に関心を寄せざるを得ないというのである。彼は、究極者(神)を「存在自体」と言い、「存在の力」(power of being)「万物の中に在る存在せしめる力」「万物を目的に導く力」であるというのである。

 

また、「存在自体の構造は、それが他のすべての事物の運命であるように、神の運命となる………神は自分自身の運命であり、『自己自身で』存在し、『aseity(自存性)』を有する」(同、299頁)。

「存在の力としての神はすべての存在と存在の総体(世界)とを超越する」(同、300頁)と述べている。

 

そして、「もし神が何よりも先ず存在自体、また存在の根拠と解されるならば、神論における多くの混乱と多くの弁証論的弱さとは除去されたであろう。存在の力という表現もまた同一のことを他の仕方で表現する方法である」(同、298-299頁)と述べている。

 

このように、上述のような神観こそ「神を超自然の領域に幽閉している神学」よりも「聖書的である」と断言するのである。

 

藤倉恒雄氏は、彼の著『ティリッヒの「組織神学」研究』の中で、「存在自体」としての神概念を擁護しながら、カント的原理による神認識に対して次のように批判している。

 

「超自然主義は万物の内的原理としての『存在自体』を認識不能とし、………神認識はカント的原理の上でのみ可能とされ、神を道徳的規範理念(一存在)にするか、認識の基礎に信仰を置く不合理な信仰主義(fideism)によって超自然的な啓示を成立させる。ティリッヒはこのような解釈が神の中に意志の優位を措定し、究極的には神の自由と主権を保障するものの、『存在自体』としての神概念を見失うものでしかない」(『ティリッヒ「組織神学」研究』、藤倉恒雄著、新教出版社、63-64頁)というのである。

 

したがって、ティリッヒは存在に基礎を持たない一切の観念の偶像を(しりぞ)ける、と藤倉恒雄氏は解説する。このように、ティリッヒの存在論を根拠とする神の捉え方は、諸宗教の神観念を統一することを可能にするのである。

 

ティリッヒは、われわれのように「存在自体」を四位基台、「存在の力」を万有原力(縦的な力)と授受作用の力(横的な力)として解明していないが、彼のこのような神を存在論的に捉える神論は「統一原理」の神論と一致するものである。

 

ところで、現代人の生を支配している人間中心主義、実証主義的諸思想は、神を存在論的に叙述する可能性を否定し、合理性を超えた一切の実在を許容せず、究極者の概念を斥ける。そのことがキリスト者にも反映し、人格的な分裂を経験せしめている、とティリッヒはいうのである。

 

この「合理性を超えた一切の実在を許容せず」とは、実在する神に関してカントが因果の法則による神(第一原因)の存在論的証明を「独断論の妄想」(『純粋理性批判』(中)、カント著、岩波文庫、164頁)とし、経験の「対象の領域外」(同、158頁)と批判したことによる。

そして彼は、「神の実在を、最高善を可能ならしめる必然的条件として要請されなければならない」(『実践理性批判』、カント著、岩波文庫、250頁)と主張した。

 

このカント哲学は、自然神学(神の存在論的証明)を否定し、〝神認識は信仰から〟と捉えようとする福音主義の哲学化である。カント哲学と同様に、福音主義神学における客観的に根拠をもたない〝信仰による神認識〟は、神を、心情の枠内(家庭的四位基台に根拠をもたない個人が信じる主観的観念)に幽閉して、自然界をもっぱら無神論や唯物論の独壇場にするのである。これは、知性の怠慢であるという他はない。

 

周知のように、カール・バルトはカントの側に立って彼の神学の基礎を確立する。

 

『カール・バルトの生涯』を書いたエーバーハルト・ブッシュは、バルトは「彼(バルト)は、『カントとシュライアーマッハの綿密な研究によって彼自身の神学の基礎を確立しよう』としていた」(『カール・バルトの生涯』、E・ブッシュ著、小川圭治訳、新教出版社、68頁)と述べ、「『神の存在に関する宇宙論的証明』(もちろん、すでにカントとヘルマンにおいて片づいた問題であるが)について論文を書いた」(同、68頁)と述べている。

 

このように、バルトはカントの影響を受け、自然神学、自然哲学による「神の存在に関する宇宙論的証明」はカントの批判によって決着したのだと見て、存在論的な究極者の概念を斥けて、「神認識は信仰から」という立場に立つのである。

 

しかし、藤倉恒雄氏は、ティリッヒの観点から次のようにカントを批判する。

 

「合理性を超えた一切の実在(リアリティ)を許容しない実証主義的()()が究極者の概念を(しりぞ)け、その結果、相対的な文化の営みを絶対化するか、逆にすべてを相対化し、キリスト者にも聖書の提示している究極者の概念に基づいた統一的な世界解釈を困難にさせている」(『ティリッヒの「組織神学」研究』、藤倉恒雄著、新教出版社、2頁)と指摘している。

言うまでもなく、ティリッヒは相対主義の絶対化に反対している。

 

われわれも統一原理の視座から、カントが果たした一時代的なアベル的使命を評価してはいるものの(『原理講論』523頁)、存在論的な究極者の概念を斥け、「神認識は信仰から」という立場に立つカント哲学、および福音主義神学を論破しなければならないと見るのである。

 

カントは、彼の著『純粋理性批判』や『判断力批判』の中で因果律による神の存在証明や創造目的、そして宇宙論的証明を否定している。

このカントの見解はいまだ論破されず、各界において支持されている。それゆえ、各界から統一原理の神観(存在論)が、既存の観念論哲学や自然神学と同類のものと誤解されてしまい、排除されることを懸念するのである。

 

統一原理(『原理講論』)は、性相と形状の二性性相という新しい概念で無形なる存在自体(神)の存在構造を「性相的な存在構造」として解明している。それは、精神や物質に関する既存の観念論や実在論の諸概念と区別するためである。

唯物論を生み出したのは、唯心論(観念論哲学)が間違っていたからである。しかしながら、唯物論と唯心論とを批判克服する二性性相の概念が、いまだによく理解されていない現実がある。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(9)

(四)神の実在

 

(A)「神」の意味

 

(1)「現象学的記述」

 

神とは何か。現象学の視座からみると、「『神』は人間の有限性に含まれている問題に対する答えである」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、268頁)という。

 

ティリッヒによると、「『究極的に関心する』という語句は、………実在の領域にせよ、想像の領域にせよ、具体的に出会わないものには関心がよせられ得ない。普遍的なものは、それが具体的経験を代表する力を通してのみ初めて究極的関心の事柄となり得るのである。ものはそれが具体的であればあるほど、ますますそれに対する多くの関心が可能になる」(同、268頁)というのである。

 

また、「究極的関心は予備的ないかなる有限的具体的関心も超越していなければならない。それは有限性に含まれた問いに対する答えとなるために有限性の全域を超越していなければならない。しかし有限なるものを超越する際、宗教的関心は一つの存在対存在の関係の具体性を失う。それは単に絶対的となるのみならず抽象的となり、具体的要素の反撥(はんぱつ)を誘発する傾向にある。これは神観念における不可避的な内的緊張である。宗教的関心の具体性と究極性との衝突は、神が経験されまたこの経験が表現される場合には、原始的祈祷から最も複雑な神学組織に至るまで常に現実である。これは、宗教史の原動力の理解への鍵であり、また最も初期の祭司的知恵から三一神論の最も精錬された論議に至るまでの、あらゆる神論の根本問題である」(同、268-269頁)というのである。

 

このように、神観念の不可避的な内的緊張関係、すなわち究極的関心に関する「具体性と究極性との衝突」が叙述されるのである。

 

また、神聖に関して次のように述べている。

 

「神々の領域は聖の領域である。」「神聖は経験される現象である。」「神聖は宗教の本質理解のために非常に大切な認識的『入口』である」「神聖の範疇(はんちゅう)を含まない神論は単に神聖でないのみならず真理でない。」(同、273頁)と。

 

(2)「類型学的考察」(神論の統合)

 

ティリッヒは、「神観念を理解するためには、神観念の歴史を観察しなければならない。」「神の意味を終極啓示の光に照らして明白にしまた解釈しなければならない」(同、277頁)という。

 

a 「多神教の諸類型」

 

ティリッヒは、神観の歴史として「多神教の諸類型」を述べる(同、281-285頁)。

彼は、宗教的関心の具体性と究極性は、それぞれ多神教と一神教を生み、両者の均衡は三一神(三位一体の神)を生むと述べている。下記の説明は、大島末男氏の要約に基づくものである。

 

多神教は、多数を超えて統一する究極的なものを欠くので、神的な諸力が、具体的状況において各自の究極性を主張するので対立し、統一に対する脅威となる。他方、ロマン主義と汎神論は、この多神教の普遍的類型の末裔であり、充分な具体性にもまた充分な究極性にも到達しえない。神話の神々は、人間の具体的関心に対する宗教的創造力によって神的な諸力の人格化を促す。神々の人格化は人間が自分より以下のものの、非人格的なものに対して究極的関心を抱けないことによる。二元論的類型の神話は善悪二元論的な歴史解釈を生むが、一神論は神観念の究極性の強調により神話を破壊する(『ティリッヒ』大島末男著、140頁を参照)。

 

大島末男氏は、いろいろな神観について、さらに次のごとく解説している。

 

「人格神は人間が抱く究極的関心の具体性に基づくが、神は人格以下でも超人格的でもありうる。動物神は、人間の究極的関心を、動物が所有する超人的なエネルギーによって表現する。反面、人間が平伏(ひれふ)し祈る神は究極的な神なので、君主的類型の一神教を生み、さらに神々も服従する宿命は抽象的類型の一神教を生む。二元論は、神の中の破壊性と建設性、善と悪を区別することにより、神の秘義的性格を克服するが、マニ教では究極的関心を表現する善神は悪神に勝るので、悪神の力は限定される。またゾロアスター教では究極的原理である善は、善と悪を包摂するので、二元論的一神教が成立し、キリスト教の三位一体論を予示する」(『ティリッヒ』大島末男著、140-141頁)と。

 

b 「一神教の諸類型」

 

「一神教と多神教の境界に立つ君主的一神教の天帝は、神々を支配するギリシアの神ゼウス、また天使達や諸霊を支配する万軍の主エホバによって例証される。さらにインドの神秘主義的一神教は、具体的な神々を超越する究極的な深淵によって例証されるが、具体性を抑圧できず、多神教に対して開かれている。他方、排他的一神教は、具体性と究極性を統合するイスラエルの預言者の宗教の系譜に属す。イスラエルの神は、アブラハム、イサク、ヤコブの神といわれるように具体的な神であるが、普遍的正義によって自己を批判し、利己的な有限的存在者の魔的要求を排除する。しかし究極の関心は具体的要素を必要とするので、キリスト教の神は三一神となる」(『ティリッヒ』大島末男著、141頁)

 

究極の関心は、「具体的要素を必要とするので、キリスト教の神は三一神となる」と論述されている。

また、聖書には究極的関心(神)に関して父と子と聖霊に関する具体的記述があるので、バルトは神を「三位一体の神」というのである。もし、具体的存在の記述がなければ「三位一体の神」は存在しないという。ティリッヒは、すべての神論は「三位一体の神」に収斂(しゅうれん)されると述べている

 

大島末男氏は、「諸宗教の神論(啓示の答え)の現象学的考察を通して、キリスト教の三一神は具体性と究極性を統合するので、自己矛盾に悩む実存の問いに対する答えを形成する事実を示す。象徴論の視座からみれば、ティリッヒが諸宗教の神論を統合する最終的で最高の形式としてキリスト教の三位一体論を指示する方法論………を形成する」(同、141-142頁)と述べている。

 

多神教から一神教までいろいろな宗教のいろいろな神観があるが、ティリッヒは結局のところ、すべての神観は「三位一体の神」に統一されるというのである。

 

「新しい宗教のための本体論は、従来のすべての絶対者が各々別個の神様ではなく、同一の一つの神様であることを明かさなければなりません。それと同時に、この神様の属性の一部を把握したのが各宗教の神観であったことと、その神様の全貌を正しく把握して、すべての宗教は神様から立てられた兄弟的宗教であることを明らかにできなければなりません。

それだけではなく、その本体論は、神様の属性とともに創造の動機と創造の目的と法則を明らかにし、その目的と法則が宇宙万物の運動を支配しているということと、人間が守らなければならない規範も、結局、この宇宙の法則、すなわち天道と一致することを解明しなければならないのです。」(八大教材・教本『天聖経』「真の神様」、79頁)

 

c 「宗教紛争の根本原因は本体論の曖昧さにある」(文鮮明師)

 

原理的な見解では、ティリッヒの存在論的な神観から、さらに発展させて、すなわち「神とアダムとエバ」の三位一体論と「神とイエスと聖霊」の三位一体論の類比から、「アダムとエバ」、「イエスと聖霊」は〝人類の父母〟であるといえるのである。

アダムとエバは堕落して〝偽りの父母〟になったが、イエスと聖霊は神の顕現であるので、神は「天の父母」であるとえるのである。

 

また、聖書に「男は、神のかたちであり栄光である」(コリント1・7)とあるので、「神は性相的な男性格主体」(『原理講論』47頁)であるといえるのである。そして、その神をキリスト教は「天の父」と呼んで、その格位を表示しているというのである。

 

神論に関して、聖書に「わたしたちは、今は、鏡に映してみるようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう」(コリントⅠ、13・12)とある。

 

以上のように、すべての宗教の神観は、統一原理の神観(「天の父母」様)に収斂され統一される。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(8)

(2)「有限的なものと無限的なもの」

 

「非存在によって限界づけられた存在は有限性である。非存在は存在の『いまだ』と存在の『すでに』として現われる。それは存在するものを一定の終末(finis)をもって脅かす。このことは存在自体――これは『もの』ではない――以外のすべてのものに妥当する。存在の力としての存在自体には始めと終りとがない。そうでないならばそれは非存在から生じたことになる。しかし非存在は、存在との関係を除いては文字通り無である。存在は語そのものが示しているように、存在論的妥当性において非存在に先行する。存在は始めのない始めであり、終わりのない終りである。それはそれ自身の始めであり終末であり、存在するあらゆるものの根源的力である。しかし、存在の力に関与するものはすべて非存在と『混合』している。それは非存在から出て非存在へと向かう過程にある存在である。それは有限的である」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、239頁)

 

ここで、有限性について原理的に反論しておきたい。

 

原理的見解では、神によって創造された被造物は有限ではない。天体や原子の円運動は永遠である。植物(種子)も生物も繁殖を通して神に似て永遠性を保持している。人間は子供を産むことによって継代(螺旋運動)を保ち、死によって人間の肉体は土にかえるが、霊人体は霊界で永生する(コリントⅠ、15・44)。人間は有限ではない。

 

生物も個体は死によって消滅するが、繁殖によって自己の種を保存し発展させ、代から代へと螺旋運動によって永遠性を保つのである。このように、愛による繁殖活動によって、人間も万物も神の永遠性に似ている。

 

ティリッヒは、「聖書記事はキリストと呼ばれた彼における死ななければならない深刻な不安を示している」(同、245頁)というが、イエスは霊界で霊の体となって生きておられるのである。

「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26・39)という祈りは死に対する人間的な弱さからそのように祈られたのではない。

 

イスラエル民族が、メシヤとしてのイエスを不信している状況下で、「この杯」すなわち第二摂理である十字架の死による救い(贖罪)ではなく、生きて第一摂理である「神のみ旨」(神の国)を成就せんがために、その願いから、もう一度、第一摂理にチャレンジさせてくださいと、そのように神(父)に祈られたのである、と解釈すべきなのである。

 

ティリッヒは、「有限性は人間の運命である」という。「死ななければならない不安がある。………非存在は『内部から』経験される」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、244頁)と。しかし「それは疎外性と罪性とから全く別個に存在の被造性に属している」(同)という。

 

正統主義は、人間が死ぬようになったのは罪を犯したからであると信じている。しかしティリッヒは、死は「罪性や堕落と全く別個」であると見ている。この見解は首肯できる。

 

不安は確かに有限性を根拠としている。有限性の主張は、「被造物は永遠ではない、人間は必ず死ぬ」という見解からくる。しかし人間の肉体は死ぬが、「霊のからだ」は霊界で永生するのである。このことを知っていれば、死からくる不安は解消する。

 

自分の死を無と考え、肉親や友人の死を永別と考えるのは死後の世界があることを知らない人間の悲劇性である。人間は堕落して神から分離し、霊界があること、霊の体があることが分からなくなっているのである。聖書には「肉の体があるのだから、霊のからだもあるわけである」(コリントⅠ、15・44)と記述されている。

 

偉大なる神学者に対してこのようなことも知らないのかといいたいのだが、ティリッヒは実存的制約下における生に関して「曖昧」であると率直に説いているので敬意を表し、人間の有限性についての彼の教説に耳を傾けたいと思うのである。

統一原理と出合うことがなかったならば、われわれは今でも霊界や霊のからだがあることを知らずにいたかもしれないのである。

 

(D)「人間の有限性と神問題」

 

ティリッヒは先の有限性の問題に続いて、下記の問題を論述している。

 

(1)「神問題の必然性といわゆる宇宙論的論証」について

 

ティリッヒによると「不安として経験される非存在の脅威」が「存在への問いとなる」と次のように述べている。

 

「神の問題が問われうるのは、問題を問う行為自体の中に無制約的要素があるからである。神の問題が問われざるをえないのは、不安として経験される非存在の脅威が、非存在を克服する存在への問いと、不安を克服する勇気への問いへと人を駆り立てるからである」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、264頁)

 

ところで、ティリッヒは神の宇宙論的証明に関して、カントの批判を取り上げて次のように不可能であると述べている。

 

「宇宙論的論証の第一形式は有限性の範疇的構造によって規定されている。それは因果の無限の連鎖から発して、第一原因があるという結論に達し、また、すべての実体の偶然性から発して、必然的な実体が存在すると結論する。しかし原因と実体は有限性の範疇である、『第一原因』は因果の連鎖の初めをなす一存在者についての叙述ではなくて、問題の実体化である。このような存在者はそれ自体因果連鎖の一部であり、再び因果の問題を提起するであろう」(同、264~265頁)

 

上述の見解は、カントが『純粋理性批判』で論述している問題で、第一原因の原因は何かと問うなら無限に因果が続くので、カントは因果律によって第一原因を論証することはできないというのである。このカントの主張に対する反論は後で論述する。

 

ティリッヒは目的論的論証に関しても、カントの批判に従い次のように述べる。

 

「宇宙論的論証が存在の根拠の問題を定形化するのと同じように、目的論的論証は、意味の根拠の問題を定形化する。………『論証』の無能性、神問題に答えることの不可能性を暴露することである。それらの論証は、神問題が有限的存在の構造の中に含まれていることを示すことによって、存在論的分析をある結論にまでもたらす。この機能を果たすことによって、それらの論証は伝統的自然神学をある面では受容すると共にある面では拒否し、そして理性を啓示へと向かわせる」(同、266頁)

 

このように目的論的証明(自然神学)についても、肯定と否定を弁証法的に論述して「理性を啓示へと向かわせる」と述べている。結局、人間を神問題へと駆り立てるというのである。

結論として、問いに対する答えは啓示(キリスト)であるというのである。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(7)

(C)「存在と有限性」

 

(1)「存在と非存在」

 

ティリッヒは「非存在の神秘は弁証法的な取り扱いを必要とする」という。ギリシア語は非存在の弁証法的概念を非弁証法的概念から区別する。前者をme on(メー・オン)、後者をouk on(ウーク・オン)と称した。ウーク・オンは存在と無関係な「無」であり、メー・オンは存在と弁証法的関係にある「無」のことである。

 

「無」に関して次のように述べている。

 

「キリスト教はcreatio ex nihilo(無よりの創造)の教理に基づいてメー・オン的質料の概念を斥けた。質料は神とは別の第二の原理ではない。神がそこから創造するnihil(無)は非弁証法的な存在の否定としてのウーク・オンである。しかしそれでもなおキリスト教神学者たちはいくつかの点において非存在の弁証法的問題に直面しなければならなかった。アウグスティヌスと彼以後の多くの神学者たちや神秘主義者たちが、罪を「非存在」と称した時に、………批評家たちがしばしば誤解したように、罪が実在ではないとか、罪は完全な現実化の欠如であるとかを意味したのではない。彼らは罪には積極的な存在論的立場がないと考え、また同時に非存在を存在に対する抵抗、また存在の歪曲と解したのである。人間の被造性についての教理は、人間論における非存在の弁証法的性格を示す今一つの点である。無から創造されたことは無に帰らなければならないことを意味する。無から創造された痕跡はすべての被造物の上に刻印されている。この理由でキリスト教はアリウスにおける最高の被造者としてのロゴスの教説を斥けねばならない。被造者としてのロゴス(キリスト)は永遠の生命をもたらしえないであろう。またこの同じ理由でキリスト教は自然的霊魂不滅の教理を排して、その代りに存在自体の力としての神から賜わる永遠の生命の教理を主張しなければならない」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、237-238頁)と。

 

また、神論と非存在の弁証法的問題に関して次のように述べている。

 

「もし神が活ける神と呼ばれるならば、もし神が生命の創造的過程の根拠であるならば、もし歴史が神にとって意味を持つならば、もし悪と罪を説明し得る否定原理が神のほかに別にないならば、どうして神自身のうちに弁証法的否定を定立することを避けることが出来ようか。このような諸問題が、神学者たちをして、非存在を弁証法的に存在自体に、したがって結局神に関連づけるように強いたのである。べーメのUngrund(無基底)、シェリングの『第一(ポテ)(ンツ)』、ヘーゲルの『反立』、最近の有神論の神における『偶然』と『所与』、ベルジャエフの『メー・オン的自由』、――これらすべては弁証法的非存在の問題がキリスト教神論に及ぼした影響の実例である」(同、238頁)

 

a 「ヘーゲル弁証法の『反定立』について」

 

上述のように、ティリッヒは「もし悪と罪を説明し得る否定原理が神のほかに別にないならば、どうして神自身のうちに弁証法的否定を定立することを避けることが出来ようか」という。そして非存在を神に関連づける実例の一つにヘーゲルの「反定立」を取り上げている。

 

この「反定立」の問題に関して、文鮮明師は次のように語っておられる。

 

「ヘーゲルの弁証法に出てくる『闘争』という観念をどこから引用したのか分かりますか。人間の心の奥に深く入ってみれば、良心と肉心が戦っています。それでヘーゲルは闘争が元来からあるように考えたのです。神が創造した世界それ自体に闘争があると曲解しました。これは、人間が堕落したという根本的な事実を知らなかったためです。人間の本心を深く調べてみれば、相反する二つの心が対立していることを知ることができますが、そのような二つの心、すなわち良心と肉心が互いに対応しながら歴史が発展してきたと見たのです。ヘーゲルが『堕落』を考えられなかったことが根本的な過ちです。堕落した結果として現れた人間自体を分析してみれば、人間は相反する二種類の性質によって結合しています。そのために、神様が人間をこのように相反する二種類の性質をもった存在として創造したことが原則であると考え、宇宙もそのようにでき上がったという理論を立てるようになりました。共産主義思想はすべての事物を弁証法的理論によって分析して、歴史の発展も弁証法によって理解するのです」(文鮮明著『神様の摂理から見た南北統一』607頁)

 

「元来創造本然の人間の内部には矛盾はなかったのです」(同、608頁)

「このような人間自体を見て弁証法という矛盾した論理が見いだされたのです。人間自体の闘争からすべて見つけ出したのです」(同、609頁)

 

ティリッヒは、上述のように神自身のうちに「対立」する二つの要素があるとし、弁証法的否定を定立させる。これはヘーゲルの弁証法の影響であって、ここから闘争概念が出てくるのである。

ティリッヒの弁証法は「マルクス―レーニン主義」の弁証法のように、事物は対立物の統一と闘争によって発展する。「統一」は条件的・一時的・相対的で、「闘争」は絶対的である。支配と被支配は逆転するというような存在と一致しない虚構の論理ではないが、G・E・ムーアから「このような統合は科学的厳密さに欠ける」と批判されたのである。

 

ティリッヒは、弁証法は「悪と罪を説明し得る否定原理」であるといい、原罪と遺伝的罪についてふれ、『組織神学』第2巻で、罪は「疎外の普遍的運命」であると次のように述べている。

 

「アダムは本質的人間として、また本質から実存への移行の象徴として理解されなければならない。原罪、ないし遺伝的罪は、本源(オリジナル)的でも遺伝的でもない。それはどの人間にも関わる疎外の普遍的運命である」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、70頁)

 

「本質から実存への移行」とはアダムの堕落を実存主義的に表現したものである。実存主義哲学による罪の叙述で問題なのは、上述のように「原罪、ないし遺伝罪は、本源的でも遺伝的でもない」という点であり、また堕落は「疎外の普遍的運命である」とする点にある。これは正統主義の堕落神話の見解を哲学的に表現したものに他ならない。

しかし、自由によって堕落したと見る疎外論には多くの問題点があるのである。

 

原罪という言葉を最初に使ったのはアウグスティヌスである。彼は「アダムの罪は、人類の末端にまで及んでいる。子孫は、性を通して生まれるがゆえに、性は二重の意味において罪の根源となっている。すなわち、一人ひとりの人間が、性を通して生まれたということが、すでに罪に満ちていたし、罪を犯す傾向性も、実は先天的な弱さとして、受けつがれてきている」(W・E・ホーダーン著『現代キリスト教神学入門』46頁)というのである。

 

プロテスタント神学は、人間の病の根源を「精神的なもの」(貪欲、傲慢、自己中心)と捉える。しかし、それがどう始まりどのように伝えられるのかという点になると、ホーダーンは「アウグスティヌスの、アダムとその罪の遺伝についての教義を、学ぶ必要性があろう」(同、47頁)と指摘し、「罪の精神性とでもいうべきものが、生物的なものへと変わっていったというように考えられる。罪の心理的分析と、その生物的遺伝的な側面の、どちらに軍配をあげ、どう調和するかということは、容易なわざではない」(同)と述べている(『続・誤りを正す』、世界基督教統一神霊協会発行、18-21頁を参照)。

 

創世記によれば、アダムとエバは「善悪を知る木の実」をとって食べて堕落したという。この「木の実」とは何であろうか。原罪とはこの「木の実」を食べたことにある。また、人間始祖を誘惑した言葉を話す「蛇」とは何か、何を象徴しているのか。

ところが、プロテスタント神学では、食べた行為よりも戒めを守らなかった動機(精神性)を心理分析し、心の中に原罪があると捉えるのである。

ところで、心の中に原罪があるとすると、また新たな問題が生じる。罪を裁く神は、悪と罪の根源ではない。それで、罪の気質がどのようにして「アダムの性質の中にはいり込んだのか」という問題が生じるのである。罪が「内的な性質にある」とする見解は、神がそのような心を創造したと神に罪の責任を負わせることになる。それゆえ、「性質に原罪がある」といえないのではないかというのである。答えは統一原理の堕落論にある。

 

b 「人間の有限性」(非存在と死)について

 

ティリッヒは「非存在と死」について次のように述べている。

 

「現在の実存主義は深刻かつ徹底した仕方で『無に遭遇』(クーン)した。それは非存在に対してその直接的語義に矛盾する積極性と力とを与えて、非存在を存在自体の上位に置いた。ハイデッガーの『絶滅させる無』は、最後的に不可能な仕方で非存在すなわち死に脅かされている人間の状況を記している。死における無の予想は人間の実存にその実存的性格を附与する。サルトルは非存在の中に無の脅威だけでなく無意味の脅威(すなわち、存在構造の破壊)をも含めている。実存主義においては、この脅威を克服する途はない。この脅威を取り扱う唯一の途はそれを自己の上に取り上げる勇気にある」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、238頁)

 

ちなみに、大島末男氏は勇気に関して次のように述べている。

 

「そして死、運命、無意味さという不安によって脅かされているにも拘らず、生きる勇気をもつことが絶対的信仰であると説いた名著『存在への勇気』(1952年刊)は、全米のベスト・セラ-となった」(『ティリッヒ』大島末男著、清水書院、57頁)と。

 

非存在と人間の有限性に関する弁証法について、ティリッヒは次のように述べている。

 

「非存在の弁証法の問題は不可避であるという。それは有限性の問題である。有限性は存在を弁証法的非存在に結合する。人間の有限性すなわち被造性は、弁証法的非存在の概念なしには理解されない」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、238-239頁)

 

このように、ティリッヒの神学は「非存在すなわち死に脅かされている人間の状況」「死における無の予想」を論述し、「人間の有限性」の問題を主題として取り上げる。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(6)

(B)「存在論的諸要素」 

 

(1)「個別化と関与」

 

ティリッヒは、「プラトンによれば、相違の観念(イデア)は『すべてのものの上に行きわたって』いる。………聖書の創造物語においては、神は普遍者でなく個別存在者を、男性とか女性とかの観念(イデア)ではなくてアダムとイヴとを創造する。新プラトン主義でさえ、その存在論的『実在論』にもかかわらず、種のイデア(永遠の原型)のみでなく、個々のもののイデアもまた存在するとの説を受け入れている」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、220頁)という。

 

ティリッヒによると個別化は特殊なものではなく、存在論的要素であり、性質であるという。そして「絶対的に等しい事物は実存し得ない」(同)というのである。

 

これは中世のスコラ哲学の普遍論争である。「普遍は存在するか」という問いをめぐって争われてきた哲学と神学の論争の一つである。

普遍は個物に先立って存在するという実念論(実在論)と、普遍は個物の後に人間が作った名前に過ぎないという唯名論が対立した。

この論争は、近代哲学や現代哲学において「普遍概念」の問題として論争されてきた。

 

ちなみに、統一原理によると、人間は「神の形象的個性真理体」であるという。すなわち無形なる神の実体(神の像)として創造されたというのである(創世記1・27)。

個性真理体とは、人間は唯一・絶対・永遠・不変であるということである。この真理によって人格の独自性(個別化)が確立される。そして、人は諸人格との交わりをもつ。このように、人間は人格的存在であり、共同体的存在であるといえるのである。

 

ティリッヒの神学には、統一原理のように人間(男・女)が世界(ペア・システム)に対応する小宇宙であるという論証はないが、「人間は精神と実在との合理的構造を通して宇宙に関与する」(同、222頁)、「宇宙的な諸構造、諸形式及び諸法則が人間に開けているゆえに、人間は宇宙に関与する」(同)と説いている。

 

このように、ティリッヒは、人間(個別的自己)は環境に関与し世界と宇宙に関与するというのである。しかし、先に指摘したように個別化には「男・女」、「雄・雌」、「陽・陰」という主体的要素と対象的要素の「格位性」に関する明確な区別の説明はない。

 

ティリッヒの「自己―世界」構造を、より理解するために、ここで「科学的神学」について述べておこう。トーマス・F・トランスは、次のごとく述べている。

 

「自然科学によって探求されている時間と空間のこの宇宙は、神学に無関係であるどころか、神がそこに人間を置いた宇宙だからである。神は宇宙を創造され、人間にそれを研究し解釈する精神と悟性を賜った」(『科学としての神学の基礎』トーマス・F・トランス著、教文館、18頁)。

「人間をその本質的構成要素とする宇宙を、それ自体を認識し、かつ明確に表現できるものとして創造した」(同、18頁)

「人間のいない自然は沈黙したままであり、自然に言葉を与えること、すなわち生ける神の栄光と尊厳を表わす全宇宙の口になることが、人間の役割なのである」(同、18-19頁)

「また、神が人類との対話のなかで人間にご自身を人格的に啓示してきたのも、この空間と時間の宇宙を通じてである。この歴史的対話は、神の言を知解可能な仕方で人間に媒介し神認識を聖書を通して伝達可能にする相互関係の共同体を確立してきた」(同、19頁)

 

上述の文章の中に多くの示唆と霊感をわれわれは読み取ることができる。人間のみが言葉を持つ存在なのである。ティリッヒは、「言語は人間が小宇宙であることを証明する。普遍概念を通して人間は最も遠い星にも最も遠い過去にも関与する」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、222頁)という。

 

科学的神学とは、ハルナックに代表される歴史科学あるいはもっと広義の文化科学として方法論的に確立された神学であって、19世紀にドイツの近代的大学の中に科学としてのいわば市民権を確立した神学のことである。

言い換えると、ハルナックによれば「科学一般とかたく結合されており、それと血縁関係にあるところの神学である」ということである。

 

ちなみに、統一原理は「宇宙は何のためにあるのであり、その中心は何であるのだろうか。………人間が存在しないならば、その被造世界は、まるで、見物者のいない博物館のようなものとなってしまう」(『原理講論』59頁)、「博物館のすべての陳列品は、それを鑑賞し、愛し、喜んでくれる人間がいてはじめて、………各々その存在の価値を表すことができる」(同)と述べている。

これは、人間と世界の「主体―対象」構造と、神が人間を創造した目的に関する叙述の一節である。

 

a 「力動性と形式」

 

ティリッヒは、存在者の内容と形式を力動性と形式として次のように語る。

 

「力動性と形式との両極は、人間の直接経験においては活力と志向性との両極的構造として現われる」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、227頁)

活力(ヴアイタリティ)は生ける存在の生命と成長とを維持する力である。êlan vital(生命の躍進)は新しい形式へと向かって生きる万物の活ける実体の創造的衝動である」(同、227頁)

「存在の力動的要素は自己を超越し新形式を創造しようとする物の傾向を含んでいる。と同時に万物はその自己超越の基礎としての自己自身の形式を保存しようとする傾向を持つ。万物は同一と相違、静止と運動、保存と変化を統一しようとする傾向を持つ」(同、228頁)

 

この力動性と形式の両極性はヘーゲルやマルクスの弁証法を理解していなければ理解することができないであろう。ただし「マルクス―レーニン主義」(共産主義)では事物の内部矛盾において対立物の「統一」は一時的・条件的であるが、「闘争」は絶対的であるという。

 

しかし、ティリッヒは「存在について語ることなくして生成について語ることは不可能である。生成過程においてどこまでも不変にとどまるものが根源的であるように、同様に生成は存在の構造において根源的である」(同)という。

 

この不変と可変(生成)に関して、原理的に解説すれば、「存在の構造」(神)について、四位基台には「自己同一的四位基台」(不変)と「発展的四位基台」(生成・発展)の二つの形態があるということを、ティリッヒは弁証法的に上述のように表現しているのである。

 

ティリッヒは、人間以下の生命力と人間の力動性について、次のように述べている。

 

「人間における力動的要素はあらゆる方向に開かれている。………人間は技術的領域と精神的領域を創造する。人間以下の生命力動性は、それが産み出す無限の変形にかかわらず、また進化過程によって創造される新しい諸形式にもかかわらず、自然的必然性の制限内にとどまっている。動態が自然を越えて伸びるのはただ人間においてのみである」(同、227頁)

 

ちなみに「マルクス―レーニン主義」は、生命は物質の高度に発達した段階であるとし、鉱物、植物、動物、そして人間も「運動する物質である」という。

これに対して、ティリッヒは、物質も「生」の概念に包含し、すべて存在するものを「生の過程である」というのである。

 

b 「自由と運命」

 

ティリッヒは、存在論的両極性は自由と運命の両極性であるという。この存在論的両極性とは存在するものには必ず二つの対立する要素があるということでる。

これは、マルクス主義の物質の運動は内部矛盾によるという見解と相似する。統一原理は「神のうちに生き、動き、存在している」(使徒行伝17・28)のは、万有原力(縦的力)と授受作用の力(横的力)によると捉え、二つの要素は対立物ではなく、相対物(相応物)であるというのである。

 

自由と運命の両極性とは、「人間は自由を持つから人間であるが、しかし人間が自由をもつのは運命との両極的相互依存性においてのみである」(同、230頁)というのである。普通は、自由と必然として語られる。

 

「自由は一機能(「意志」)の自由ではなくて人間の自由、すなわち事物ではなくて完全な自己であり理性的人間である存在者の自由である」(同、231頁)

 

「自由は熟慮、決断、および責任として経験される。………熟慮とは、論証や動機を考量する(librale)行為を指す。考量する人間は諸動機の上に超越している。諸動機を考量している限り、彼は諸動機のどれとも同一ではなく、そのすべてから自由である」(同、232頁)

 

ティリッヒによると、制約された自由を行使することにより、人間は本質の領域から脱落して実存の領域へ移行したというのである。

簡潔に言えば、自由で堕落したというのである。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(5)

(三)「存在と神」

 

ティリッヒは「存在と神問題」の序論として次のように述べている。

 

「理性と啓示の相関から存在と神の相関へと進むに際して、われわれはさらに根本的な考察へと移るのである。伝統的な用語によれば、われわれは認識論的問題から存在論的問題へ移るのである。存在論的問題とは、存在自体は何かという問題である」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、204頁)

 

上述の存在論的問題とは、ハイデガーが「<存在(ザイン)>とはなんであるか?」(『存在と時間』(上)、岩波文庫、23頁)と問う、その存在である。

 

 

(A)「基礎的存在論的構造――自己と世界」

 

「基礎的存在論的構造」は存在論的に神を論述する準備段階である。

 

(1)「人間、自己、世界」

 

人間と世界の関係について、ティリッヒは次のように述べている。

 

「すべての存在は存在の構造に関与しているが、ただ人間だけは直接この構造を意識している。人間が自然から疎外していること、人間は人間を理解し得るようには自然を理解し得ないことは実存の性格に属する。人間はすべての諸存在の行動を記述しうるが、その行動がそれらのものにとって何を意味するかを直接には知らない。………われわれは他の諸存在にはただ類比によってのみ、したがってただ間接的に不正確に接近し得るにすぎない。神話と詩はこのわれわれの認識機能の制限を克服しようとした。知識は失敗して退去するか、あるいは認識主観を除去した世界を、人間の身体を含むすべての生ある諸存在を部品とする巨大な一機械に改造するか(デカルト派)のいずれかであった」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、211頁)と。

 

すべての存在者の存在する目的と意味がわからず、人間と自然は巨大な一機械であるとは、確かに悲劇的な人間観であり世界観である。しかし、ティリッヒは次のように真理への存在論的な第三の道があるという。

 

「人間は他の諸対象の中のすぐれた一対象としてではなく、存在論的問いを問い、自己意識の中に存在論的答えを見出しうる存在として、宇宙を構成する諸原理は人間の中に求められねばならぬという古い伝説――神話と神秘主義により、詩と形而上学により等しく表現されてきた伝説――は、行動主義的自制によってさえ、間接的無意識的に確認されている。『生の哲学者』と『実存主義者』とは、存在論の依拠すべきこの真理を現代のわれわれに想起させたのである。ハイデッガーの『存在と時間』における方法はこの観点よりして特徴的である。彼は、存在の構造が顕わになる場所を『現存在(ダーザイン)』と呼ぶ。しかし『現存在』が何であるかは人間が自己自身のうちに経験する。人間が自己自身で存在論的問いに答えうるのは、彼が存在の構造とその諸要素を直接に経験するからである」(同、211-212頁)

 

このようにティリッヒはハイデガーを取り上げ、真理への存在論的な第三の道を説き、人間が神の存在、すなわち「その存在構造とその諸要素」を経験することが出来るというのである。

 

文鮮明師は、「神」を家庭路程の中で経験され、その「存在構造とその諸要素」を「四位基台」と「二性性相」として把握され、また「神の心情」(神の愛)を「四大心情圏と三大王権」として経験し、概念化された。

 

a 「理性の構造と存在の構造の不一致から一致へ」

 

ティリッヒによると、「存在論の問題は問う主体と問われる客体とを前提としている。それは『主体―客体』構造を前提とし、そしてこれが更に存在の根本的区分としての『自己―世界』構造を前提としている」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、206頁)という。

 

それゆえに、「理性の『主観客観』構造は自己と世界の相関性に根差し、そこから生ずる」(同、215頁)というのである。

 

ところで、理性の構造と存在の構造は一致しているというのであろうか。

ティリッヒは、「人間が自然から疎外していること、人間は人間を理解し得るようには自然を理解し得ないことは実存の性格に属する」(同、211頁)と述べ、不一致を指摘する。

さらに、「人間はすべての諸存在の行動を記述しうるが、その行動がそれらのものにとって何を意味するかを直接には知らない」(同)と断言する。

 

毛沢東の『実践論・矛盾論』によると、実践認識、再実践再認識と無限に客観的真理に近づくことができるというが、ティリッヒによると、人間は罪ゆえにいくら実践しても客観的真理(存在)は認識できないというのである。

そして、理性の構造と存在の構造の不一致から一致へと如何に至るかについて、彼は究極への関心と啓示が真理を与えるというのである。

その啓示とは神の霊であって、その霊的現臨に対する判断基準は究極的啓示であるキリストにある。

 

このように、ティリッヒの神学では、創造本然の神と人間、人間と万物の関係は不明瞭であるが、自己と世界を「主体―客体」構造を前提とし、相互依存関係として捉え、全存在を理解可能にする前提として、人間は小宇宙であると捉えている。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(4)

(B)「啓示」について

 

啓示は、伝統的には普通の知識獲得の方法によっては得られない秘められたものの顕現を意味する。この秘められた隠されたものはしばしば神秘と呼ばれている。この神秘は普通の認識態度とは相容れない態度で体験されるとティリッヒはいう。

 

(1)「啓示の諸媒介と相関の方法」

 

ティリッヒは、啓示の媒体としての自然について次のように述べている。

 

「自然からとられた啓示の諸媒介は自然的諸対象物と同様に無数にある。大洋や星、植物や動物、人体や魂は啓示の自然的諸媒介物である。同様に啓示的性格を帯びた状況に入リ得る自然的出来事もまた無数に存在する。空の動き、昼と夜、生成と衰亡、誕生と死などの変化、自然界の激変、また成熟、病気、性、危険などのような精神的(サイコソ)身体的(マティック)諸経験などである」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、149頁)

 

このように、「いかなる実在、事物、出来事でも、存在の神秘の担い手となり啓示的相関の中に入ることの出来ないものは何もない」(同、148頁)という。

 

具体的には、自然や歌や言葉などを媒介として、ある状況下にある人間に啓示し、悟りを与え、神(メシヤ)へと心を向けさせる。

このように、ティリッヒの神学は「相関の方法」であって、啓示と人間状況に関しても相関関係として捉えるのである。

 

したがって、もし主観の側がそれらを啓示と受けとらなければ、ただの偶然の出来事にすぎないことになり、何も啓示されない。

また、主観の側が啓示と受けとったとしても、相関関係外の人にとっては、それらの出来事は啓示として信じることが出来ないし、無関係なことと受けとられるというのである。

 

(2) 「終極啓示」

 

啓示の中の〝終極啓示〟としてのキリストについて、次のようにティリッヒは語っている。

 

「終極啓示すなわちキリストとしてのイエスにおける啓示は普遍的に妥当する、なぜなら、それはすべての啓示の基準を含み、すべての啓示の終局(finis)ないし目標(telos)であるからである。終極啓示はそれに先行また後続するあらゆる啓示の基準である。それはそれが出現した文化と宗教のみならず、あらゆる宗教と文化の基準でもある。それはすべての人間集団の社会的存在にも、すべての個人の人格的存在にも妥当する。それは人類そのものにとっても妥当し、またある叙述不可能の仕方で宇宙に対しても意味を持つ。キリスト教神学の主張はこれ以下であってはならない」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、171頁)

 

上述のように、ティリッヒによると、キリストは「あらゆる啓示の基準」であるという。

すなわち、「あらゆる宗教と文化の基準」であり、「すべての人間集団の社会的存在」や「個人の人格的基準」にも妥当し、さらに「宇宙に対しても意味をもつ」というのである。

 

このようなキリストを〝終極啓示〟とする啓示理解は、諸宗教の啓示に対して、キリストへ向かわせるものと理解して寛容な態度をとる。これは、バルトのキリスト以外の啓示を否定する見解と異なる。

 

大島末男氏は、終極啓示について次のように述べている。

 

「したがって啓示の答えも、本質領域におけるプラトン哲学やヘーゲル哲学、実存領域におけるハイデガー哲学、また諸宗教によっても提示される。たしかにキリスト教は終極的解答を提供するが、諸宗教の解答も、それぞれ固有な意味において予備的な解答であることが承認される」(『ティリッヒ』大島末男著、清水書院、137頁)と。

 

a 「脱自」

 

大島末男氏は、脱自について次のように述べている。

 

「脱自とは、理性が主観と客観の対立構造を超えることであり、存在自体が人間の精神を捉えるとき生起する。人間存在の根底を揺さぶる非存在の脅威が惹起する存在論的衝撃は、『なぜ存在があって無ではないのか』という根本的な問いを提起するが、その答えは存在の自己肯定、すなわち罪人を救うキリストの出来事が啓示する。この存在の自己肯定(存在の力)が虚無を克服し、自然の秩序を形成する出来事であり、存在の意味である」(同、117頁)と。

 

脱自(恍惚)は、精神がその通常の状態を超え出るという意味において〝異常〟な精神状態を指す。われわれが〝霊的になった〟ということを指す。

それは理性の否定ではない。それは理性が自己を越えること、すなわち認識における主観と客観を超える精神の状態を脱自という。脱自的理性もやはり理性である。理性は、非理性的あるいは反理性的なものを受容しない(受容すれば自己破壊する)。

 

神的脱自は合理的精神の統一をそこなわないが、魔的憑霊はそれを弱め、または破壊する。また、脱自はその認識的要素に関しては、しばしば霊感と呼ばれている。

 

b 「奇蹟」

 

ティリッヒによると、奇蹟はそれが「(しる)しの出来事」となる人々、すなわち信仰によって受けとる人に対してのみ与えられるという。

彼は、イエスは客観的奇蹟を行うことを拒否していると述べている。

 

最後に、啓示に関する理解について、ティリッヒは次のごとく述べている。

 

「脱自も奇蹟も認識理性の構造を破壊しないのであるから、科学的分析、心理学的物理学的また歴史学的研究が可能であり、必要である。研究はなんの制約もなく進めることができ、進めざるをえない。その研究は啓示、脱自、奇蹟についての迷信と魔的解釈とを切りくずすことが出来る。真の啓示の超自然主義的歪曲に対する戦いにおいて、科学、心理学、歴史学は神学の味方である。科学的説明と歴史的批判は啓示を防衛する。………啓示は理性の深層と存在の根拠との顕現である。それは実存の神秘とわれわれの究極的関心を指し示す」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、147頁)と。

 

すでに指摘してきたごとく、啓示に対する迷信や悪霊現象を分別する基本的見方は、キリストの御言であり、ティリッヒもわれわれも同じ見解である。

 

具体的に、統一原理は「善神の業と悪神の業」の見分け方を論述し、「善神の業と悪神の業は同一のかたちを持って出発し、ただその目的のみを異にする」(『原理講論』120頁)と述べている。

また、上述のごとくティリッヒは啓示を曲解する戦いにおいて、科学、心理学、歴史学は神学の味方なのであると述べている。

この見解は、バルトの一切の人間学的要素の排除という宣教神学と対立する。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(3)

下記の文章は、技術的理性が存在論的理性から分離していく過程に関するルドルフ・ブルトマンの著書『歴史と終末論』からの引用文である。

 

「ベーコン、ホッブス、ロック及びヒュームに源を発し、十九世紀に発達した近代自然科学は感覚的経験によって証明され、且つ数学の用語によって表現され得る物理的法則に基づいて生起することがらに限り実在と認めたのである。人間自身もまた自然科学の対象となり、したがって感覚的経験の世界とは異るものとしての人間の真の自己に関する問は消却されてしまった。そして、それとともに個人がそれにしたがって責任をもって生をおくるべき永遠の精神的な法則についての問が、消え失せてしまったのである。……人間は自然的存在として理解され、かくして人間学が生物学となる。人間の生は風土や地形や経済的な諸条件によって決定されるものとして理解されたのである。その結果、善の概念が変わった。善は有用なものに限る。……歴史は早くもモンテスキュー(1689-1755)の頃にすでに自然史として考えられたのである。オーギュスト・コント(1798-1857)は歴史というものはそれを社会学に変形することによって、科学の地位にまで高めることができるものと信じた。カール・マルクス(『資本論』1867以降)は、『弁証法的唯物論』を考え出し、歴史を通じて発展する客観的精神というヘーゲルの概念を経済史に変形した。この理論によれば、精神的な諸概念は経済的諸条件から生れた倒錯的な『イデオロギー』なのである。」(R・K・ブルトマン著『歴史と終末論』、中川秀恭訳、岩波書店、11-12頁)

 

かくして一切の認識が経験に依存し、真理認識が歴史的な性格をもち歴史的相対主義が現れる。その結果、普遍的真理の探究は無意味となり、歴史のうちにはたらく力、思想と知識の基礎としての理性に対する信仰が消え失せるのである。ティリッヒのいう存在論的理性の危機である。神や人間の本質を問うことの無意味さが支配的となるのである。

 

ティリッヒは、相対主義の絶対化に対して断固反対している。

 

ティリッヒは、「技術的理性は一つの道具であり、他のすべての道具と同様に、多く或いは少なく完全であり、多く或いは少なく巧妙に使用されることが出来る。しかし、いかなる場合にも実存問題は出されもせず、また解かれもしない」(『組織神学』第1巻、92頁)と述べている。

 

技術的理性では解かれないという実存問題とは、自己破壊に脅かされている実存的制約下にある理性のことである。

 

 c 「理性の深層」

 

ティリッヒは、理性の深層とは「理性ではないが理性に先行し理性の根底にあって理性を通して顕現するあるものの表現である」(同、98頁)という。

ティリッヒは、「客観的主観的両構造における理性は、その構造の中に顕現するが、しかも力と意味において両構造を超越するあるものを指し示している」(同)というのである。それでは、どのように合理的理性的に表現されるというのであろうか。

 

ティリッヒは次のように語る。

「それは合理的構造の中に現われる『実体』、或いは存在のロゴス(、、、)として顕現する『存在自体』、或いはあらゆる合理的創造における創造的な『根拠(グラウンド)』、或いはいかなる創造によってもまた創造の全体によっても汲みつくされ得ない『深淵』、或いは精神と実在の合理的諸構造にはいり込み、それらを実現し形成する『存在と意味の無限の可能性』などと呼ばれうるであろう」(同)。

そして、「理性に『先行する』ものを表現するこれらすべての用語は、比喩的性格を持っている」(同)と慎重に語る。

 

理性の深層に関する比喩は、次のように理性が実現化する種々の領域に適用される。

「認識領域においては理性の深層は、すべての相対的真理を通して真理それ自体を、すなわち存在と究極的に実在的なるものの無限の力を指し示す理性の性質である。美的領域においては理性の深層は、美的直観のすべての分野の作品を通して美それ自体を、すなわち無限の意味と究極的意義を指し示す理性の性質である。法律的領域においては、理性の深層は、実現化された正義のすべての構造形態を通して、正義それ自体を、すなわち無限の厳粛と究極的な尊厳を指し示すところの理性の性質である。社会的領域においては理性の深層は、実現された愛のすべての形態を通して愛自体を、すなわち無限の豊富さと究極的統一を指し示す理性の性質である。理性のこの次元、すなわち深層の次元はすべての合理的諸機能の本質的な性質である。それは理性の諸機能をして無尽蔵ならしめかつ偉大ならしめるそれら自身の深層である。」(『組織神学』第1巻、98-99頁)。

 

イエスと聖霊によって新生した理性であれば実存的制約下から解放されているので比喩的といわなくてもよいのだが、イエスのように完全に神と一体化した「真の人」になる過程にあるので、ティリッヒは「理性の深層」や「存在自体」(神)に関して「象徴」であると表現し、また、『組織神学』第3巻においては、すべての存在、すなわちすべての「生の過程」(内部に矛盾のある状態)を「曖昧」であると神学的に表現する。

 

 (2)「実存的制約下の理性」

 

ティリッヒのいう実存的制約下の理性とは、具体的にどのような理性をいうのであろうか。

彼は実存の諸制約下にある理性は「自己自身に矛盾し、分裂と自己破壊におびやかされている。理性の諸要素は互いに衝突する」(『組織神学』第1巻、103頁)と述べている。そのような理性のことである。

 

しかし、実存の制約下にある理性は、自己矛盾し崩壊する危険に晒されているが、本質構造を完全に失っていないので、実存的苦境の中にあっても、啓示への探求へと駆られるというのである。

言い換えると、人間が「限界状況」に達したとき、理性は「もっとも深いところ」(理性の深層)につきあたり、実存や存在の関係が明瞭となってくると、そのような限界状況においては、究極的なものへの関心が啓示への探求となり、理性の問いは啓示が答えとなるというのである。

 

以上のように、ティリッヒは「理性そのものに対する非難は、神学的無知か神学的傲慢かの兆候である」(『組織神学』第1巻、103頁)と批判し、ブルンナーと同様に、人間は罪の支配の下にあるとはいえ、「理性の基礎的構造は必ずしも完全には喪失されてはいない」(同)と述べている。

 

 a 「神認識に対する疑念」

 

次の問題は、理性で神の存在を把握できるか否かという問題である。換言すると理性の制限(認識の限界)、あるいは理性の有限性として知られている問題であるが、有限性の範疇で無限なるものを把握し、経験の範疇で真の実在を捉えることができるのかという問題である。

 

ティリッヒは、この理性の有限性については、ニコラウス・クザーヌスとイマヌエル・カントによって古典的な形で次のように述べられているという。

 

クザーヌスによると、理性はその有限性にもかかわらず、「無限の深層」(神)を意識する。理性はそれを合理的知識の言葉で表現できない(無知)。しかしそれが出来ないことを知る知識こそが真の知識である(学識)という。つまり「学識ある無知」とは人間の認識理性の有限性とそれ自体の「無限性の根拠」(神)を把握し得ない人間の無能性を認めることなのである。

 

カントの場合、彼の著『純粋理性批判』によれば、経験の諸範疇は有限性の諸範疇であり、それによって実在自体(神)を把握できないという。有限性の範疇で無限なるものを把握し経験の範疇で神の実在を捉えようとすると必ず失敗に終わるという。なぜなら、その把握は神を経験の範疇で規定することになり、神を他の存在と並ぶ一存在に格下げすることになるからである(『純粋理性批判(中)』、篠田英雄訳、岩波文庫、128頁参照)。

 

ティリッヒは、このカントの主張を受容する。われわれは補足理論の個所でこのカントの主張に反論する。

 

 b 「自律と他律」

 

自律と他律は共に神律に根差している。神は理性の構造と根拠として法であるがゆえに両者は神によって統一され、その統一は神律として発現する。けれども実存の制約下においては完全な神律はない。実存的制約下では自律と他律はお互いに争い、お互いに他を破壊しようとする。ティリッヒはこの分裂の再統一は啓示への探求であるという。

 

事実、実存の制約下で分裂している啓蒙主義の自律と正統主義神学の他律は、ともに「理性の深層」(神)に根差さないので、相互に争い、相互に破壊し合う。しかし、両者を統一するのは啓示(神律)であるという。

 

また、ティリッヒによると絶対主義と相対主義の葛藤を統一するのも啓示によるという。啓示は自己分裂した理性の統合を意味するのである。